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江  戸  橋 (えど ばし)

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edo bridge

  江戸橋は、中央区日本橋1丁目と日本橋本町1丁目との間で、都道316号線(昭和通り)を渡す橋である。

  この橋の創架は明らかでないが、寛永9年(1632年)作成と推定されている、最古の江戸都市図「武州豊嶋郡江戸庄図」(通称、寛永江戸図)にはすでにその名がある。「東都案内」には寛永8年(1631年)とある。橋名の由来は定かではないが、日本橋に次ぐ位置にあるから江戸とつけれれた、あるいは、江戸とはもともとこの付近の地名と伝えられている。当時の位置は、現在より下流の楓川との合流点付近にあった。

  たびたび火災により焼失している。日本橋区史の略年表などによれば次ぎのようである。

  明暦3年(1657年)焼落…天和2年(1682年)仮橋焼失…元禄16年(1703年)焼失…享保17年(1732年)焼失…延享2年(1745年)改架し翌年焼失…宝暦元年(1751年)焼失…宝暦10年(1760年)焼失…文化3年(1806年)半焼…文政12年(1829年)焼失…改化3年(1846年)焼失…安政5年(1868)焼損

  明暦の大火直後に両岸の橋詰に火除地が設けられて江戸橋広小路と称した。しかしながら、記録が示す通り、さしたる効果をあげていない。安政地震(*1)直後に改架されて明治に至っている。創架以来明治維新まで、おおよそ20年に1回の割合で架替えが行われたことになる。

  明治8年(1875年)2連の石造アーチ橋が架けられたが(写真の左手が江戸橋、後方に見えるのは楓川河口付近の海運橋、これらは肥後の石工による)、不等沈下が激しく、明治34年(1901年)に鋼3ヒンジアーチ橋(橋長21間・幅8間)に架替えられている。

  現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁として架けられた、重厚な2連の鋼アーチ橋である。橋体の他、親柱や高欄も良い状態で維持管理されている。

  付近には、首都高速道路の江戸橋インターがあり、高架構造物が重層的に橋上を圧迫している。また、この橋には、橋詰広場を専有して高速道路の出入路が取付けられた。


(*1)安政2年(1855年)10月2日亥刻(いのこく=夜十時ごろ)に発生。江戸湾の荒川河口付近を震源とする直下型で、マグニチュード6.9と推定されている。火災が翌日の明け方ちかくまで続き、市中の大半を焼失した。死者7千余・重傷者2千余・倒壊家屋1万4千余などの記録がある。

  • 橋梁形式   鋼アーチ橋
  • 橋  長   63.40m
  • 幅  員   44.00m
  • 架設年次   昭和2年12月 
  • 建設機関   復興局
  • 管理機関   東京都
  • 最 寄 駅   地下鉄銀座線/東西線/浅草線日本橋駅