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豊 海 橋 (とよみ ばし)

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toyomi bridge

  豊海橋は、日本橋川が隅田川に合流する位置にある。中央区新川1丁目と日本橋箱崎町との間で中央区道を渡す橋である。

  隅田川のすぐ下流側に永代橋がある。江戸の頃、永代橋は現在の位置よりも上流側にあり、隅田川のこのあたりは諸国廻船の船着場であった。川岸には土蔵が建ち並び、陸揚げされた荷駄の行交う活気に満ちた界隈であった。周辺には、現在でも倉庫が多い土地柄である。

  この橋の創架は、元禄11年(1698年)とされている。古図にはホウカイバシと記したものがある。あるいは、乙女橋、女橋と呼ばれたこともあったらしい。いずれも、豊穣を表すめでたい橋名である。

  明治6年(1873年)7月に長22間・幅3間の木橋が、明治36年(1903年)1月に長22間・幅4間の下路式プラットトラス橋が架けられている。

  現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁である。橋の形式は、我が国にあまり例の無い、下路式のフィーレンディール橋である。非常にがっしりとした形をしている。構造計画を担当した復興局の成瀬勝武(*1)は、この橋の形式選定について、次のように書いている(*5)。

  「永代橋の上流寄りに豊海橋があった。日本橋川の河口にある運河橋であるが、永代橋の新鮮な巨容の傍らにあって、トラス橋とするとコントラストが悪く、そこで私はヒィーレンデル形式を選んで、その形式を加えた比較設計の透視図を数葉、岡村蚊象氏(*2)に描いてもらい田中課長(*3)にお目にかけた。これで良いということになってヒィーレンデル形式に決まったが、しかし不静定次数が10以上もある構造なので誰がその応力を解くかというときに(大正14年の春)、新卒業の福田武雄氏(*4)が入局されたので、その設計と応力計算を福田氏にお願いすることになった。溌剌たる若い技術家が縦横にその腕を振るえる時代であったのだ。」


(*1)復興局土木部橋梁課課長補佐及び課長を歴任し、昭和5年4月日本大学土木工学科教授に就任、 若きエンジニアの育成にあたった。

(*2)後の山口文象。和洋建築や土木施設のデザイも手がけた異色の建築家として知られる。大正13年から15年の間、復興局嘱託として橋梁のデザインに参画した。外濠の数寄屋橋と八重洲橋、浜離宮の入口に架かる南門橋のデザインが代表的作品である。
  「株式会社アール・アイ・エー/山口文象研究会」に彼の作品集など詳細なレポートがある
  「街と森を考える/まち・もり通信/山口文象論」にも彼に関する詳細なレポートがある

(*3)復興局土木部橋梁課長として、復興橋梁の建設全般を指揮した。永代橋と清洲橋の構造計画、デュコール鋼やニューマッチクケイソンの導入など、今日の橋梁技術の基礎を創った。後に東京大学工学部土木工学科教授。土木学会田中賞は、橋梁技術への多大な貢献を記念して設けられた。33代土木学会会長

(*4)大正14年東京大学土木工学科卒業、復興局に奉職。後に東京大学工学部土木工学科教授。52代土木学会会長

(*5)土木技術25巻4号「土木技術家の回想(その4) 昭和45年3月 P−127

  • 橋梁形式   フィーレンディール橋(剛結構橋)
  • 橋  長   46.80m
  • 幅  員    8.00m
  • 架設年次   昭和2年6月
  • 建設機関   復興局
  • 管理機関   中央区
  • 最 寄 駅   地下鉄日比谷線/東西線茅場町駅        JR京葉線八丁堀駅