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日本橋川の橋梁群


CONTENT

   日本橋川のこと
   橋梁群のこと
   橋梁群の現状





江戸名所百景・日本橋雪晴

  雪に覆われた白壁の土蔵が建ち 並び、近くには江戸城が、また 遠く富士山が望まれ、図の右下 に活気を呈する魚河岸(関東大 震災後、築地に移転)の盛況ぶ りが描かれている      


江戸橋からの日本橋の眺め








「日本橋まちづくり」の
     アイデアコンペ最終審査結果発表!!!
  国土交通省の「日本橋 みちと景観を考える懇談会」は、日本橋の歴史や文化を継承しながら、にぎわいのある新たな日本橋地区をつくるためのアイデアを募集していたが、平成16年11月1日(月)、アイデアコンペ最終審査結果を発表した。
 → 懇談会サイトへ

「東京都心における
    首都高速道路のあり方委員会」報告書
 → 首都公団サイトへ
日本橋川のこと


  日本橋川は、東京都千代田区三崎町で神田川と別れ、中央区日本橋箱崎町で隅田川に合流する延長約4キロメートルの河川です。河口付近の中央区新川で、亀島川を分流しています。このホームページでは、亀島川も日本橋川に含めて記録しています。

◆日本橋川=江戸を支えた物流の大動脈

  江戸の頃、日本橋川や隅田川の下流地域は、江戸湊と呼ばれる巨大な物流拠点をなしていました。江戸湊は、発達した運河網や荒川水系、利根川水系などを通じて関東全域と、さらには江戸湾を経由して日本各地と結ばれていたのです。
  河岸には市が立ち、また倉庫が建ち並ぶなど、人、物、金、そして情報が集まる物流の拠点として、巨大都市−江戸の生活を支えていました。各種の問屋、両替商などの大店が店を構え、芝居小屋が立ち、江戸町民で終日にぎわう一大商業金融センターでもありました。
 安藤広重の「日本橋雪晴」は、こうした河岸の様子を描いています。

◆日本橋川=町並みの表側から裏側へ

  日本橋・大手町・内神田などの地域は、今日でも、我が国の中枢管理機能が高度に集積する、都心地域を形成しています。
  日本橋川は、江戸から東京へと時代がかわっても、何時も巨大な都市の中心部を流れつづけてきました。

  しかし、日本橋川と川筋の界隈との結びつきは、明治以降大きく変質しました。
  公共のスペースであった河岸の国有化が進められました。この背景には、河岸の市場運営に係わる民間人の自治を、国家秩序の外にあるかのようにとらえた、明治維新政府の拒否反応があります。後に、国有化された河岸地は、次々と民間へ払下げられました。
  また、物流のにない手は、船運から鉄道や道路など陸上交通へとシフトして行きます。こうして、川筋を表側として造られた町並みは、川筋に背を向けた町並みへと変化して行ったのです。

  昭和39年、日本橋川に蓋をするような形で、首都高速道路が建設されました。高速道路の高架構造物は、川筋の眺めを分断し、橋梁群を上部から圧迫すなど川筋の景観を激変させました。
  当時の河川・運河は、水質汚染と悪臭がひどく、隅田川の暗渠化計画が検討されたほどでした。加えて、東京の道路状況は、東京オリンピックをまじかに控えて、都心部を中心とする幹線道路の激しい交通混雑対策が急がれていました。こうした状況下で、切羽詰って機能するこの国特有の意思決定システムが、河川・運河網を高速道路網に転用する計画を構想し具体化したのです。
  この高速道路網は、明治以降の陸上交通重視の政策が完成したことを、宣言しているかのようにも思えます。

  現在の日本橋川は、東京都心の間隙を流れる川といって過言でありません。鉄筋コンクリート壁の高潮護岸が、この状況を一層強調しています。

◆日本橋川の再生=再び表の川に

  日本橋川の現状は、明治以降百数十年かけてつくりだされたものです。したがってこの川が、 町並みの表側を再び流れるようになるには、やはり同じ年月が必要になるのでしょう。百数十年という年月は、この川の長い歴史から見れば、さほどの期間とも思えません。
  幸い国土交通省は、「日本橋は首都・東京の顔であり、首都高速道路に覆われた景観の回復を図ることは、国として取組むべき課題である」(平成13年3月15日、扇国土交通大臣談)との認識のもと、首都高速道路の地下化など具体案の検討を進めています。

 川筋の景観に係わる全ての機関は、超長期的視点に立って、日本橋川を中心とする景観軸を再生するために全力を傾注してほしいものです。

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橋梁群List

日本橋川
  橋  名 橋梁形式 架設年次
01 豊海橋 S剛結構橋 昭和02年◇
02 湊  橋 Rアーチ橋 昭和03年◇
03 茅場橋 S単純鈑桁橋 平成04年▲
04 鎧  橋 S連続鈑桁橋 昭和32年▲
05 江戸橋 Sアーチ橋 昭和02年◇
06 日本橋 石造アーチ橋 明治44年
07 西河岸橋 S連続鈑桁橋 大正14年◇
08 一石橋 S連続鈑桁橋 昭和48年▲
      平成13年
09 常盤橋 Rアーチ橋橋 昭和01年◇
10 常磐橋 石造アーチ橋 明治10年
11 新常磐橋 S単純箱桁橋 昭和63年▲
12 鎌倉橋 Rアーチ橋 昭和04年◇
13 神田橋 S単純H型橋 昭和55年▲
14 錦  橋 Rアーチ橋 昭和02年◇
15 一ツ橋 S単純鈑桁橋 大正14年◇
16 雉  橋 Sアーチ橋 大正14年◇
17 宝田橋 S単純箱桁橋 昭和43年▲
18 俎  橋 S単純鈑桁橋 昭和58年▲
19 南掘留橋 Sゲルバー鈑桁橋 昭和03年◇
20 堀留橋 Rアーチ橋 大正15年◇
21 新川橋 Sゲルバー鈑桁橋 昭和02年◇
22 あいあい橋 S単純鋼床版箱桁橋 平成13年
23 新三崎橋 S単純鋼床版鈑桁橋 平成14年▲
24 三崎橋 S単純鈑桁橋 昭和29年▲

亀島川
  橋  名 橋梁形式 架設年次
25 南高橋 Sトラス橋 昭和07年◇
26 高  橋 S単純箱桁橋 昭和58年▲
27 亀島橋 Sローゼ橋 平成14年▲
28 新亀島橋 Sラーメン橋 平成07年▲
29 霊岸橋 S単純箱桁橋 昭和60年▲
  •   S:鋼
  •   R:鉄筋コンクリート
  •   ◇:復興橋梁
  •   ▲:復興橋梁を架替
  •   *:架替工事中
  • 一石橋:上段は上流側の値
         下段は下流側の値
  • あいあい橋:歩行者専用橋
  • 南高橋:復興事業により
         明治37年架橋の
         旧両国橋中央径間を移築


迷子しらせ石標(一石橋)



西河岸橋の橋詰広場
橋梁群のこと


◆橋梁群=橋の間隔は平均170m

  日本橋川と亀島川には、現在、明治期の橋、震災復興事業により架けられた橋(復興橋梁)、これらを昭和30年代以降に架けかえられた橋、および最近架けられた橋の4種、29橋が供用されています。これらのうち、明治期の橋や復興橋梁を中心とする15橋は、それぞれに個性的であり、日本橋川は橋の展覧会場といって過言でない橋梁景観を創っています。

◆江戸から明治・大正へ=絶間のない架替えから耐久化を目指す

  日本橋川には、古くから多くの橋が架けられてきました。

  江戸の頃には、もっぱら木橋が架けられました。
  江戸は火事の多いところでした。明歴、行人坂、芝車坂の3大火を含めて、記録された大火は200件以上に及んでいます。 このため、江戸の橋には、火災による焼失の記録が数多く残されています。例えば、日本橋では、記録に残るだけでも12回を数えており、おおむね20年に1回火災のために架替えていたことになります。
  江戸の橋は、こうした火災のほかに水害の被害も多く、絶えまない補修や架替が必要でした。

  明治になると、橋の耐久化が図られました。まず、肥後の石工により、
常磐橋(明治6年・1873年)や江戸橋(明治8年)に石造アーチ橋が架けられました。常磐橋は、今日までも歩行者専用橋として供用されており、東京で最も古い石造アーチ橋です。
  明治44年には、橋の中の橋、日本の橋といわれる日本橋が架けられました。橋梁技術者、建築家、彫刻家の協力によるルネッサンス様式の装飾橋梁は、明治国家の威信を今日まで伝えています。
  明治10年代に入ると、鉄橋が架けられようになりました。錬鉄製ラティストラス形式の高橋(明治16年・1883年)は、「原口 要」(東京府技師長)の設計による我国最初の国産道路橋です。以降錬鉄製ウイップルトラス形式の鎧橋(明治21年)、錬鉄製ボースとリングトラス形式の西河岸橋(明治24年)、湊橋(明治28年)などが、原口及び彼の部下であった「原 竜太」の設計により架けられました。また、彼らの設計により、鋼製の3ヒンジアーチ橋の江戸橋(明治34年)が架けられました。

  大正に入ると、コンクリート系の橋が架けられました。まず、無筋コンクリートアーチ橋の新常磐橋(大正9年・1920年)があります。この橋は、第1次世界大戦の影響で鋼材が高騰したため、無筋とせざるを得なかったのでした。つづいて、鉄筋コンクリートアーチ橋の一石橋(大正11年)があります。これらの橋は、スパンドレルの石張り、親柱、高欄などのデザイン密度の高い装飾橋梁でした。

  こうして、日本橋川の橋梁群は、皇居の東側には石橋、錬鉄橋、鋼橋、コンクリート橋などが、北側には木橋が分布する状況で昭和を迎えようとしていました。

◆震災復興橋梁の建設=橋の展覧会場の出現

  大正12年9月に発生した関東大地震により、橋梁群のうち神田橋と一ツ橋が焼失して橋の機能を失いました。その他の橋については、常磐橋のスパンドレルの石組の一部崩壊、江戸橋のアーチクラウンの沈下、新常磐橋のコンクリート施工目地にクラック発生など、比較的軽微なものでした。これらの震害を踏まえて、内務省復興局及び東京市により、耐震・耐火橋梁を目指して様々な形式の橋梁が架けられ、川筋の景観は一変しました。

  震災復興事業を急ぐ世論に応えて、復興局が考案した「復興局型」の一ツ橋神田橋があります。

隅田川の永代橋とのバランスを考慮した豊海橋
鋼桁橋では、アールデコ様式で装飾された西河岸橋、簡素な新川橋
鋼アーチ橋で重厚なイメージを醸し出す江戸橋
鉄筋コンクリートアーチ橋では、堂々たる石張りの常盤橋、オープンスパンドレルで素打ちの錦橋

 ユニークな例では、着工が遅れたため事業費の制約を受け、隅田川にあった旧両国橋の中央径間を再使用した南高橋があります。旧両国橋は、明治37年(1904年)のプラットトラス橋で、関東大地震の被害を受けたため架替えられたものです。この結果、南高橋は、現役の道路橋では都内で最も古い橋となりました。

  これらの橋は、旧橋や架橋地域の歴史性と、架橋地点の地盤高、地質条件、川幅、船運状況など物理的条件への適合性から選定され、デザインされたものです。このため、それぞれの橋は個性的です。日本橋川は、橋の展覧会場になったのでした。

◆橋詰広場=まち中の橋を象徴するスペース

  橋梁群の多くは、橋ぎわの四隅に、橋詰広場と呼ばれるオープンスペースを持っています。よく保存されている例に、日本橋の橋詰広場−元標の広場乙姫の広場滝の広場花の広場−があります。

  江戸の頃の橋詰広場は、荷揚げ場など川との結節点、高札場など情報交換の場、市が立つなど物流の場、など多様なターミナル機能を持つ空間でした。一石橋橋詰に現存する迷子しらせ石標は、こうした橋詰の機能を今日に伝えているようです。石標は安政年間に建立され、この界隈での迷子の情報交換手段を提供していたのでした。

  今日の橋詰広場は、交番や公衆トイレを設置するなど、橋との結びつきの無い空地として扱われれている例が多く見られます。しかし、うるおいとゆとりあるまちづくりへの機運の中で、「橋ぎわのたまり場」などオープンスペース機能に着目した整備が進められています。鎧橋茅場橋(1)茅場橋(2)の例では、橋との関係や水際のロケーションを生かしてデザインされています。小規模な例ですが、西河岸橋の橋詰広場でのスナップショットは、今日の橋詰広場に期待される機能を明快に示しています。

  橋詰広場は、橋と橋をめぐる人々とを結びつけるスペースであり、まち中の橋に必須のものといえます。

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歩行者の頭上を圧迫する高速道路
(日本橋)
橋梁群の現状


◆高速道路の建設=激変した川筋と橋の景観

  昭和39年に建設された首都高速道路の高架構造物は、川筋の眺めを分断し、橋を上部から圧迫するなど、日本橋川をめぐる景観を激変させました。開高健は日本橋について、次のように書いています。「こちらからあちらへ”渡る”というより”潜る”という言葉を味わう」と(東京ルポ)。

  高速道路はまた、橋詰広場を出入路に専有するなど、優れた橋のあり様を物理的に傷つけています。例をあげれば、江戸橋で2箇所、神田橋で3箇所の橋詰広場が出入路になっています。また、一石橋や堀留橋では、スパン中央付近に出入路が接続されています。

◆新しい橋の登場=橋梁群の多様性の喪失

  昭和30年代に入ると、橋の老朽化や地下鉄建設などのために、次第に架替が始まりました。平成14年初頭現在までに、11橋の架替がなされ、現在1橋が架替工事中です。新しい橋の形式は、新常盤橋俎橋高橋などの例が示すように、すべてが鋼桁橋、しかもその多くは1−スパンの橋となっています。橋の個性を失い、橋梁群の多様性も徐々に失われています。

  橋梁群は、日本橋川を中心とする景観軸において、さまざまな景観要素の中核を占めてきました。今ある橋梁群のうち保存すべき橋は何か、それをどのように保存するか、また橋梁群から引継ぐものは何か、それを架替橋梁にどのように表現するか、橋梁管理者である区、都、国は、早急にこれらの研究に協同で取組む必要があります。すべての管理者が共通の管理方針のもと、連携しながら橋梁群の維持管理にあたってほしいものです。

  橋梁群の多様性が失われている背景には、橋梁と河川の技術者が深く係わっています。両技術者は、いずれも河川の中に構造物を設けるのを避けているように思えます。一方は、経済性を考えるあまりに、他方は管理基準を硬直的に運用するあまりに。

  このような中、平成7年に架けられた新亀島橋は、架替橋梁のあり方について一つの回答を示しているように思えます。高張力鋼の独自の形は、橋梁群の中で新しい個性を主張しています。

◆逼迫する財政状況=求められる管理水準の維持

  橋体の維持管理や橋詰広場の保存・活用など、橋梁群の管理水準を見ると、下流部と中・上流部とに大きな格差があります。一方には、適切なコンセプトのもと、優れたデザインで修景されている一群の橋があります。他方では、何の管理行為も加えず、荒れるにまかせた一群の橋があります。

  橋の管理者である区、都、国に対しては、格差の生じている橋の管理水準を引上げること、好ましい管理水準を維持すること、そしてこれらに要する財源確保への取組みが厳しい財政状況の中で求められています。

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