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一  ツ  橋 (ひとつ ばし)

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hitotu_bashi bridge

  一ツ橋は、千代田区一ツ橋1、2丁目間で、都道301号線(白山通り)を渡す橋である。

  江戸の初期、一本の丸太の橋があり、これが橋名の起こりといわれている。寛永年間には、江戸城廓内と市街とを結ぶ一ツ橋御門の廓門橋に位置づけられた。付近には、旧外濠の石積みが残されている。御三卿の一ツ橋家は、この橋名によっている。その邸宅は、この橋詰から神田橋に及ぶ広大なものであった。

  明治6年(1873年)、櫓門が撤去されて橋だけとなった。

  関東大震災により、神田橋と同様に火災を起こして焼失した(*1)。

  現在の橋は、震災復興事業による復興橋梁である。橋梁形式は、帝都の早期復興を願う社会的要請から、復興局が考案したユニークなものである。このことについて、次ぎの記録がある(*2)。

  「土地区画整理事業は、出先機関の各出張所の区画整理担当の方々の熱烈な努力にもかかわらず、その進捗には遅々たるものがあって、橋でいえば、橋台地の敷地を得られないものが多く、工事着手は遅れるばかりであった。

  その時、橋梁課長の田中豊氏は、橋台を河川運河の中に設けて、構造の両岸に影響を与えることの僅かである橋梁形式を案出された。それは橋台を川の中に設け、中にアーチ形の流水部分をあける閉塞ラーメンであって、それが側径間となり、中央径間にプレートガーダーを架ける方式であった。一般に復興局型の橋と俗称され、後に大阪市内でもその特徴を利用する橋が現れた。東京での第1号は神田橋、続いて親父橋、一ツ橋などに採用された。
(中略)
  こうした諸形式で、まだ区画整理事業の停滞しているときに、河川運河に幹線街路橋が架設始めたので、太田(円三)土木部長(*3)は大変喜ばれ、これは復興事業を促進するものであると、課長以下は賞められ、新聞記者は「復興はまず橋梁から」などという見出しで記事を書いていた。」

  また、これに関連して、太田の後任にあたる大岡大三土木部長は、次ぎのように復興事業を懐古している。(*4)

  「敷地ができない間は、橋梁工事を進めて行く、「復興は橋より」なんと言ってやったわけであります。そのために、あるいは「渡れぬ橋」なんかもできましけれども、どんどん他に関係のない工事から始めて行きました。それから区画整理が済むにしたがって街路工事、あるいは運河工事というような敷地を要する方の仕事に追々着手することがききるようになりました。」

  以上からは、ビックプロジェクトに取組む技術者集団が、困難な状況へ対応しようと奮闘する姿を垣間見ることができる。

  一ツ橋の形態は、やはり仮橋的なイメージを色濃く漂わせている。橋台の石とこれを結ぶ鋼、また剛な橋台とスレンダーな鈑桁など違和感があり、橋に伸びやかさがない。


(*1)大正12年関東大地震震害調査報告 昭和2年12月 土木学会 P−43
  「橋脚は、松杭を打ちコンクリートを敷いたものを基礎とし、その上に鉄筋コンクリート柱を建込み、その上端を鋼材綾構により連結したものである。上部構造は、おおよそ神田橋と同様であった。このため、やはり橋床下面より引火し焼け落ちたものである。」

(*2)土木技術25巻4号「土木技術家の回想(その4)」 成瀬勝武 P−127

(*3)復興局土木部長として復興計画のマスタープランを推進した。大正13年3月、復興事業の半ばにして突如自殺した。神田橋左岸の橋詰公園に彼の胸像が設置されている(相生橋の中の島公園にあったものをここに移設)。

(*4)帝都復興秘録 昭和5年3月 東京市政調査会編輯 P−338

  • 橋梁形式   ラーメン橋台及び鋼鈑桁橋
  • 橋  長   30.80m
  • 幅  員   28.00m
  • 架設年次   大正14年12月
  • 建設機関   復興局
  • 管理機関   東京都
  • 最 寄 駅   地下鉄東西線竹橋駅