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江戸の大火と橋梁




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江戸の十大火事

@明暦3(1657)1月18〜19日の火事 ・振袖火事、丸山火事  丁酉(ていゆう)火事 ・本郷丸山本妙寺、  小石川新鷹匠町、麹町五丁目 ・江戸城、市街地の2/3を焼失  最大規模の大火
A天和2(1682)12月28日の火事 ・お七火事 ・駒込大円寺
B元禄11(1698)9月6日の火事 ・勅額火事、中堂火事 ・新橋南鍋町 ・上野寛永寺が被災、  南風で千住まで延焼
C元禄16(1703)11月29日の火事 ・水戸様火事 ・小石川水戸藩邸
D享保2(1717)1月22日の火事 ・小石川馬場火事 ・小石川馬場の武家屋敷
E明和9(1772)2月29日の火事 ・目黒行人坂火事 ・目黒行人坂大円寺 ・麻布、神田、千住まで延焼、  死者15,000人  明暦大火に次ぐ大火
F寛政6(1794)1月10日の火事 ・桜田火事 ・麹町平川町 ・虎ノ門から芝へ延焼
G文化3(1806)3月4日の火事 ・車町火事、牛町火事  丙寅(へいいん)火事 ・芝車町の牛車輸送店 ・京橋、日本橋、神田  浅草まで下町530町を焼失  死者1,200人
H文政12(1829)12月28日の火事 ・佐久間町火事  己丑(きちゅう)火事 ・神田佐久間町の材木小屋 ・下町の中心部を焼失
I安政2(1855)10月2日の火事 ・地震火事 ・安政大地震によるもので  市中各所から出火
(備考)記載内容 ○大火の発生年月日 ・大火の別称 ・出火か所 ・被災地域など
江戸三大大火は@EG







浅草見附の惨事
(「むさしあぶみ」より)



逃まどう人々
(「むさしあぶみ」より)

◆頻発する大火=3年に一度の割合で発生

  過密都市江戸の最大の悩みは、頻繁におきる火災でした。江戸三百年を通して、大火とよばれるものだけでも80回をこえるとされています。これは、おおよそ3年に1回は、大火があったことになります。
 火災が多かった理由は、熱源と照明源とに火を使用したこと、木造建築物による過密な都市構造であったこと、有効な消防機器が存在せずもっぱら破壊消防のみが消防手段であったこと、などによるものです。また、火災の原因には放火が多く、深刻な社会問題となっていました。

  大規模な大火は、空っ風が山手から下町に吹きおろす冬期に最も多く発生しました。強風にあおられて広範囲に延焼するというものでした。また、小規模なものであっても、短期間に連続的に発生し、大きな被害をもたらした事例もありました。例えば、享保6(1721)年1月から3月にかけての6度の火事によって、江戸の三分のニが焼失したといわれています。

◆江戸期最大の明暦大火=防災まちづくりを促す

  被害の大きさとその影響の深刻さの点で画期的な大火は、明暦3(1657)年1月の明暦大火、俗称振袖火事です。1月18日、本郷丸山の本妙寺から出火、猛烈な北西風ににより南は京橋まで焼失、東は佃島の一部に飛火しました。
  翌日19日も激しく季節風の吹く中、小石川の新鷹匠町から出火、竹橋付近空から江戸城に延焼し天守閣をはじめ本丸、二の丸、三の丸が炎上、ただ西の丸のみが焼け残りました。
  同日夜間、こんどは麹町五丁目から出火、外桜田、西の丸下、愛宕下などの大名屋敷を焼いて芝浦にまで延焼しました。
 これらの火災の結果、江戸の三分のニを焼失、死者10万人以上という、江戸期最大の被害となりました。

 明暦大火の出火原因は、出火か所の時間的推移の様子から、放火と考えられています。この背景には、当時40万人といわれた牢人問題があったようです。幕府による大名の改易・減封により大量の牢人が発生し、江戸市中にはこれら不満分子があふれていました。明暦大火の数年前の慶安4(1651)年、由井正雪事件が発生しています。

明暦大火の焼失地域(推定)


(江戸東京博物館編「図表でみる江戸・東京の世界」より)


  この大火で多くの死傷者を出したのは浅草見附でした。大火の非常措置として小伝馬町牢獄の囚人たちを仮釈放したところ、見附の番士が脱獄と思いこんで門扉を閉じたため、火に追われた群集 からは圧死、焼死、神田川での溺死など、おびただしい犠牲者をだしたといいます。この他、隅田川には上流の千住大橋以外に橋がなかったため、逃げ場がないまま焼死した人や隅田川に逃込んで溺死した人など、多数の犠牲者がありました。幕府は、これらの大きな犠牲から、避難路としての橋梁の重要性を認識しました。

 大火後、幕府は定火消の設置、瓦葺の建築や土蔵造り建築の推奨などのソフトな対応とともに、ハードな対応として、大規模な都市改造に着手しました。
  道路の拡幅、火除地や広小路の設置、隅田川の新しい橋−両国橋−の架橋、江戸中心部の空地率を高めるため、隅田川東岸方面への武家屋敷・寺社・町屋の移動、隅田川東岸本所の開発など、これらは、江戸の基本構造を決める市街地整備でした。

  幕府のとった大火直後の救援策は、大名・旗本などに対して参勤交代の延期、普請負担の減免、拝借金・下賜金の支給などがあり、町方に対しては粥の施行、銀一万貫(16万両)の下賜などを行いっています。これらの救援策は、大火の都度なされており、幕府の財政への重い負担となりました。



◆火事と喧嘩は江戸の華=火事と江戸町民

  江戸の町人たちは、火事を前提とした生活を強いられていました。

  商人にとっての最も重要な心掛けの一つは、あらかじめお店の木組みを隅田川東岸の木場にあずけておき、いったん火事で焼けると、ただちに灰かきをして、建物をたてて営業をはじめるだけの準備をしておくということした。また、自宅付近には前蔵とよぶ自家用倉庫をおいて小出しの営業を行い、荷受けの主力は隅田川東岸の深川などに自家用倉庫を置いていました。これは火災対策と同時に卸売り価格をにらんだ商品市況対策でもありました。

  江戸の大火は、全国に大きな影響を与えました。幕府のみならず武士や町人の生活必需品が全国から江戸に送られてきました。極論すると、江戸時代の経済成長を支えた消費の大きな要因として、江戸の大火が存在したということができます。
  火災による復興景気は、商人たちに利益をもたらしたばかりでなく、建築関係を中心とする職人層にも仕事を与えることになりました。明和9年の行人坂火事ののち、職人たちの開帳奉納物(信仰している秘仏開帳の際の奉納物)が派手になったという記録があります。

  火事は、恐ろしい災害ではありましたが、夜空をこがす火焔は、世界第一の人口を擁する大都市江戸の華であり、悲喜こもごもの住民生活を形成する年中行事のひとつであったのです。宵越しの銭はもたないという、江戸っ子気質は、こういう風土で醸成されたものでしょう。


江戸時代の隅田川架橋年表
文禄  3(1594)年:千住大橋架橋
寛文 元(1661)年:両国橋架橋
元禄  6(1693)年:新大橋架橋
元禄 11(1698)年:永代橋架橋
安永  3(1774)年:吾妻橋架橋

江戸の消防組織

@大名火消 ・寛永20(1643)年設立 ・担当地域は江戸城、武家地 ・6万石以下の大名16家を4組に編成、  1万石につき30名の火消人足を出し、  1組(420人定員)が10日づつ  防火にあたった
A定火消 ・万治元年(1658)設立  明暦大火の反省(大名火消は役に  立たなかった)のもと設立 ・主たる担当地域は江戸城、武家地 ・4名の旗本に火消屋敷を与え、火消  人足常用の資金300人扶持を給した ・寛文2(1662)には10隊となったが、  以降幕府の財政窮乏のため暫時  衰退した
B町火消 ・享保3(1718)年設立  町奉行大岡忠相が組織した ・担当地域は町地 ・隅田川西岸を20町ごと47小組とし、  いろは47文字を組の名とした  東岸の深川、本所は16小組とした ・享保15年47小組を1から10番組の  大組、16小組は南北中の3大組  に再編成 ・元文3(1738)年の記録によれば、  最大動員数は1番組の2,177人  最小は9番組の597人  総計で一万名近い人員を有した  これは町人50人に1人の割合である ・火元の風下では各自の町を守り、  風上と風脇の町々から召集して  消火にあたった ・定火消の衰退にともない、武家地  の消防にもあたった ・延亨4(1747)年、初めて江戸城内の  消火にあたる

◆大火と橋梁=平均20年に1回の焼失

  日本橋川の江戸橋に着目して、日本橋区史略年表などにより火災による被災記録を調べると、次ぎのようになります。

  明暦3年(1657年)焼落…天和2年(1682年)仮橋焼失…元禄16年(1703年)焼失…享保17年(1732年)焼失…延享2年(1745年)改架し翌年焼失…宝暦元年(1751年)焼失…宝暦10年(1760年)焼失…文化3年(1806年)半焼…文政12年(1829年)焼失…改化3年(1846年)焼失…安政5年(1868)焼損

 これによれば、創架以来明治維新まで、おおよそ20年に1回の割合で架替え、または大規模修繕が行われたことになります。また、日本橋にも、ほぼ同様な記録が残されています。

  また、江戸時代の大火による橋梁被害を時系列的に記述すると、以下のようになります。

  明暦大火により焼失した橋梁は、60橋に達し、焼失地域で焼け残ったのは一石橋、浅草橋の2橋のみと伝えられています。

  天和2(1682)年12月には、日本橋、江戸橋、和泉橋、新し橋、荒布橋、浅草橋、他多くの小橋梁が焼失。

  元禄16(1731)年11月には、小石川水戸藩邸から出火し、両国橋、浅草橋、和泉橋、他多数の小橋梁が焼失。この大火のさい、両国橋を渡って江東方面へ避難しようとする人々が多く、橋上や橋詰で五、六百人もの焼死者や溺死者を出したといいます。

  宝暦元年(1751)2月には、芝明神前と神田から同時に出火し、江戸橋その他53橋が焼失、隅田川では新大橋と永代橋が焼失しています。

  宝暦10(1756)年2月には芝明神前から出火し、和泉橋、新し橋、日本橋、京橋、江戸橋、荒布橋、霊岸橋、その他多数の入堀の小橋梁が焼失、さらに新大橋、永代橋を焼いて隅田川東岸に延焼し深川、木場方面を焼いて洲崎で焼け止まるという大火になっています。この大火で焼失した橋梁数は、大橋11橋、小橋45橋、その他総数104橋との記録があります。

  なお、江戸市中の橋梁数は、宝暦5年の記録によると、おおよそ270橋となっています。

  つづいて、明和9(1764)年の大火では、日本橋その他市中の橋170橋が焼失。文化3(1806)年には日本橋、京橋その他30橋あまりが焼失。文政12(1829)年には、62橋が焼失または損害を受けました。

 こうした多発する火事から橋梁を守るため、橋梁消防の専門組織が置かれた記録があります。
  第3代家光の寛永17(1640)年6月、髪結職人たちに橋詰での床見世営業を許可する見返りとして、火事のさいの消防を義務づけました。
  これは、享保元年(1716)年に髪結組合の出した書上に、その旨の記述があります。「髪結職のもの御用筋相つとめ候起立の儀、寛永17年6月、その頃の御奉行神尾備前守殿、朝倉仁右衛門殿、御番所へ召出され、町々御入用橋、左右六町の髪結へ見守り仰せつけられ、焼印札御渡し下し置かれ候よし申しつたえ…」 また、消防具として長柄杓、綱釣瓶、大はしご、水鉄砲、大鳶口、斧などを常備すること、また両橋詰に4斗だる10戸をおいて、出火のさいはそれに水を汲みこむことなどが定めてありました。