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勝  鬨  橋(かちどき ばし)


  • 橋梁形式 中央径間 シカゴ型固定軸双葉跳開橋 側 径 間 ソリッドリブ・タイドアーチ橋
  • 橋  長 246.0m
  • 幅  員 22.0m
  • 架設年次 昭和15年6月
  • 建設機関 東京市
  • 管理機関 東京都
  • 最 寄 駅 地下鉄日比谷線築地駅      都営大江戸線勝どき駅


千住大橋   佃大橋      Map Page








主径間部
歩道から見る片持梁、後方に運転室
歩道床版は死荷重を軽減するために
架設当初、檜の板張構造としていた



主径間ヒンジ部



側径間部
歩道からの巨大なアーチリング



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  勝鬨橋は、中央区築地六丁目と勝どき一丁目の間で、都道304号「晴海通り」を渡す橋である。創架は、昭和15年6月である。橋名の由来にニ説ある。一つは、ここにあった「勝鬨の渡し」によるとの説である。この渡しは、日露戦争(明治37・38年)での勝利を記念して、地元有志がつくり東京市に寄付したものである。他の一つは、完成当時の日支戦争の勝利を祈念して「勝鬨の渡し」と名づけたとするものである。

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  佃、月島方面の埋立造成は明治中頃から始まり、大正初頭頃までに月島が、昭和に入ると晴海や豊洲が埋立てられた。これらの埋立地の開発を促進するため、隅田川架橋の必要性が高まっていた。

  本橋と上流の永代橋との間は、江戸の頃は外洋船の泊地であったが、明治以降も東京港の内港に位置づけられていた。佃、月島の埋立ては、内港としての機能を維持するために、隅田川河口部を浚渫した土砂によるものであった。河岸には、東京湾汽船の発着所や石川島造船所、三菱、東神、住友などの倉庫群が立地し、大型の汽船や帆船の往来があった。このため、大型船の航行に影響のない、特殊な橋梁形式が必要であった。

  架橋計画は、すでに明治44年からあり、東京市会に架橋建議が提出され、調査費3千円を可決し測量と地質調査を実施、大正4年に型式その他の決定をみている。しかし、第一次世界大戦の影響で鋼材が高騰したことや、市財政が逼迫した状況にあったために実現にいたらなかった。つづいて、大正8年には、昇開橋が計画されたが、これも実現にいたらなかった。

  関東大震災後の復興計画において、月島をほぼ東西に貫通する幅員27mの道路(今の晴海通り)が新設されたが、復興計画が縮小されたため架橋は実現しなかった。その後、昭和4年になって、東京港修築計画の機が熟し、昭和5年12月の東京市会で架橋の決定がなされた。


勝鬨橋一般図

  工事は昭和8年6月10日に着工、4ヶ年事業の計画であったが、日支戦争の影響を受けて遅れ、7年後の昭和15(1940)年6月14日に完成した。

 本橋は、当時の国力と技術の粋を集めて建設されたものであり、東洋一の規模を誇った。中央の44mの可動径間は双葉跳開橋と呼ばれ、一対のカンテリバー式箱桁からなっている。これらは、回転軸を中心に約70°までハの字型に跳開する構造である。また側径間は、ソリッドリブの巨大なアーチリングを有するタイドアーチ橋である。





開橋状況(側面から)



開橋状況(正面から)

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  本橋が完成した昭和15年は、皇紀2,600年にあたり、国をあげて様々な事業が計画された。中でも東京オリンピックと万国博覧会は、日本の威信をかけた国家的プロジェクトであった。このうち、万国博覧会の会場が晴海と豊洲に予定されていた。博覧会を誘致することにより、東京港の建設や臨海地域の開発を促進しようとの思惑もあったものと思われる。勝鬨橋は、華やかな会場へ向かう海と陸からのゲートの役割をになうはずであった。しかしながら、東京オリンピックも万国博覧会も、第二次大戦への戦雲ただならぬなか、中止されてしまった。

 勝鬨橋は、永代橋にかわる隅田川の第一橋梁として、帝都への門を象徴することとなった。その堂々たる巨姿と高い技術水準のために、第二次大戦後の駐留軍各国は、我国が独力で架橋したことを疑ったという。

  主径間跳開部の開閉運転は、「勝鬨橋開閉運転規則」に定められ、架設当初では原則1日5回となっていた。最大70°に開かれた中央径間を大型船が通過する様子は、戦前、戦後を通して東京名所となっていた。最盛期の昭和25〜27年には、年間開閉回数約800回を数えた。

  水運と鉄道から道路交通へと、物流手段の変化にしたがって、勝鬨橋の開閉回数は、次第に減少した。昭和39年、上流に佃大橋ができてた年には、年間開閉回数約70回となった。そして通船のための開閉は、昭和43年が最後となった。同年の開閉回数は約20回であった。その後、開閉設備の維持管理のための開閉が年1回程度なされていたが、昭和45年11月29日、晴海通りの著しい交通混雑を理由として開閉が中止され、以降開かずの橋となっている。
  その後、開閉の動力源である高圧受電設備の撤去、重交通による中央径間の振動を防止するため、中央ヒンジ連結装置の補強などがなされ、開閉の物理的手段が大きく制約された。さらに、昭和55年、「勝鬨橋開閉運転規則」が廃止され、開閉に関する法的根拠も失われた。

  平成5年9月、東京港の入口にレインボーブリッジが架橋されて、首都東京の門の役割をゆずっている。