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千住大橋(せんじゅ おおはし)
- 橋梁形式 単純鋼タイドアーチ橋
- 橋 長 92.5m
- 幅 員 24.2m
- 架設年次 昭和2年11月
- 建設機関 東京府
- 管理機関 国土交通省
- 最 寄 駅 京成本線千住大橋駅
JR常磐線北千住駅/南千住駅
地下鉄日比谷線北千住駅/南千住駅
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江戸名所図会(千住大橋)
千住大橋(改架年不詳 大正4年)
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千住大橋は、荒川区南千住八丁目と足立区千住橋戸町の間で国道4号「日光街道」を渡す橋である。
創架は文禄3(1594)年、徳川家康の江戸入府後、隅田川に初めて架橋されたものである。関東郡代伊奈備前守忠次によるもので、長66間・幅4間との記録がある。当初は大橋と呼ばれたが、両国橋が架けられた後は千住大橋、あるいは小塚原橋とも呼ばれた
この橋は、何度か改架されてきたが、創架以来明治18(1885)年7月の洪水まで、一度も流出することがなかった。いわば江戸三百年を生きぬいたことになる。
慶応4(1868)年4月、最後の将軍徳川慶喜は、謹慎蟄居するため、山岡鉄舟らに見送られ、この橋から水戸へと去っていった。千住大橋は、江戸幕府の崩壊と新時代の到来をも見ていたのである
明治18(1885)年7月、隅田川の大洪水により、本橋の一部が崩壊、下流に流れ出し、吾妻橋に激突して押倒すように落橋させた。これら崩壊した橋体は、さらに流下して、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋にも被害を与えた。これが契機になって、隅田川橋梁の耐久化が構想され、まず吾妻橋から錬鉄製のトラス橋に改架された。
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橋門の「大橋」の銘板
橋面の主構
圧倒的な重量感
上流側にだけ残されている親柱
(右岸側)
航空写真
(写真左手が上流側)
- 上流側:工業用水専用橋
- 中 央:千住大橋
- 下流側:千住大橋新橋
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現橋は、復興事業と連携して事業が進めれれた都市計画事業の一環として、昭和2年、東京府により架橋されたものである。
架橋地点の川幅は、隅田川筋で最も狭い地点であり、船運状況や洪水実績などから1径間で架橋する必要があった。このため、支間90mの長大橋を架橋することとなり、当時このクラスの支間に対して最も架橋実績のあったブレーストリブ・タイドアーチが選定されたものと思われる。
本橋の設計・監理は、当時の数少ない橋梁コンサルタントであった、増田淳によるものである。復興橋梁の建設には、鉄道省出身の橋梁技術者が活躍したが、東京府や市、地方では樺島正義や増田など橋梁コンサルタントが活躍した。
(*1) 増田 淳
・明治40/1907東京大学工学部土木工学科卒業後
アメリカのヘドリック工務所に留学、以降14年間
橋梁の設計・監理業務に従事
・大正11/1922帰国し、橋梁コンサルタント
「増田橋梁研究所」を開設、全国の主要な橋梁建設
に係わった
・六 郷 橋:T14 BTA L= 66.0m 東京都
・千住大橋:S 2 BTA L= 89.4m 東京都
・白 鬚 橋:S 6 BTA L= 79.6m 東京都
・長 六 橋:S 2 BTA L= 77.6m 熊本県
・三 好 橋:S 2 S P L=139.9m 徳島県
(東洋一の支間を誇った)
・荒 川 橋:S 3 B A L= 85.5m 埼玉県
・尾張大橋:S 8 L G L= 63.4m 愛知県
・伊勢大橋:S 9 L G L= 72.0m 三重県
備考)T:大正 S:昭和 L:最大支間長
BTA:ブレーストリブ・タイドアーチ橋
S P:吊橋
B A:ブレーストリブ・アーチ橋
L G:ランガー桁橋
「独立行政法人土木研究所ホームページ」の
平成15年6月13日記者発表資料「天才橋梁設計技術者の設計図書類が多数発見される」に
経歴、設計橋梁情報、設計橋梁の現況写真等詳細な報告がある。
「日本土木工業協会ホームページ」の
建設業界01/08、09月号「土木エンジニアたちの群像−プロフェッショナルの表現」に
樺島正義と増田淳の業績が紹介されている。
本橋は、隅田川を1スパンで渡る唯一の橋梁である。簡素ではあるが、がっちりとしたエンドポストと橋門構による正面、盛上がるようなアーチリングなど重厚な橋梁である。橋門に掲げられた橋名板には大橋と書かれていて、隅田川で始めて架けられた橋であることを誇らしげに示している。白鬚橋などの3径間の橋梁と比較すると、水平方向への伸びやかさに欠けるが、圧倒的な重量感は、帝都の北門にふさわしい。
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昭和38年上流側に東京都の工業用水専用橋が架橋された。当時著しい地盤沈下が進行していた江東地区では、地盤沈下の原因であった地下水の汲み上げが禁止された。この専用橋は、代替の工業用水を供給するため架けられたものである。
つづいて、昭和48年2月、下流側に新橋が架橋された。国道4号の渋滞対策のための拡幅整備にあわせて、東京都が計画・架橋したものである。全体計画は、隅田川を渡ると同時に、右岸で旧日光街道と立体交差する連続高架構造である。現橋が下り、新橋が上りと交通を分担している。新橋にも歩道があるのだが、現橋の歩道も使えるので、5m程上り下りして橋を渡る歩行者はいない。
新橋は、将来現橋を撤去する前提の全体計画のうち、一部を先行的に施工したものである。下部工は、河川上で連続高架のオフランプを分岐させるため、橋脚2基を河川中に設ける必要があった。橋脚の基礎は深さ30mを越えるケーソン基礎で、当時東京で最も深いものであった。橋脚を設ける計画に対して、船運業者の異論があった。もともと架橋地点は川幅が狭く、さらに主構下面に突出した横桁の方向が流心と一致せず、非常に操船の難しい個所であったからである。
取付高架部の上部構造型式は、3径間ゲルバー鋼箱桁橋である。吊支間は合成桁、碇着支間も床版と主桁との合成効果を一部区間考慮した部分合成桁とするなど技術的工夫が成されている。
これらの橋梁は、それぞれ役割を荷って架橋されたものであるが、結果として著しく混乱した風景を創りだした。背景には、相互の調和以前の問題として、それぞれの存在への無関心が決定的に問題であったと思う。
土木構造物の計画・設計を志す学生諸君にお願いしたい。この現場をぜひ見ていただきたい。そして、なぜこうした状況が生まれざるを得なかったのか、考えていただきたい。
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