両国橋(明治8年改架 明治34年)
吾妻橋(撮影年次不詳)
新大橋(明治18年改架 明治30年代)
千住大橋 (改架年次不詳 大正4年)
相生橋(明治36年架橋)
白鬚橋 (大正3年架橋 架橋直後頃撮影)
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◆洋式木橋の建設=江戸期木橋群の更新
維新政府の見た隅田川橋梁群は、決して満足すべき管理状況ではなかったはずです。例えば、両国橋は、江戸期最後の改架は天保9(1838)年であり、以降破損のつど修理されてきましたが、木橋の耐用年数からいって供用の限界に達していました。
政府は、明治5(1872)年、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋の4橋を直轄管理橋梁に指定し、明治8年の両国橋と永代橋、明治9年の吾妻橋、明治18年の新大橋と順次洋式木橋へと改架しました。
洋式木橋は、欧米の木造架構法によるもので、例えば右図のように、方丈(斜材)や肱木(副桁)などにより、橋脚部の剛性強化や支間の拡大を図っています。高欄には、新大橋の写真のように、タスキ型(ダブルワーレン型)構造が好んで用いられました。
この時代の橋梁の外形的特徴は、両国橋や新大橋の事例から明らかのように、江戸時代の著しい太鼓橋と比較して、縦断勾配が現代の橋のように緩くなっていることです。これは、荷車や人力車、あるいは馬車の安全で円滑な通行のために必要な措置でした。時代は、船運から道路交通へと徐々に転換しつつありました。
明治7年10月6日、江戸以来の「御厩(おんまい)の渡し」の位置に、隅田川で6番目の橋となる厩橋が開通しました。安永3(1774)年の吾妻橋から数えて、ちょうど100年後のことでした。厩橋は、浅草三好町の日比野泰輔外一名により、明治政府の許可を得て、橋長511尺、幅20尺の賃取橋として架橋されたものです。
この時期、明治政府は、国事多難なおりから民間資金による架橋を奨励しており、厩橋のほかにも、このサイトで記録する東京の下町では、明治5年の鎧橋や明治7年の六郷橋、明治8年の左衛門橋の例があります。また、下記の大正3年の白鬚橋もこの例です。
時期が下がって、明治36(1903)年3月、相生橋が架橋されました。これは、月島の埋立完成にともなう水道整備の一環として、越中島と佃島の間に架けられたものです。
また、大正3(1913)年5月、白鬚橋が架橋されました。土地の人々が基金を集めて、資本金10万円の「白鬚橋株式会社」を設立、橋長130間、幅24尺の木橋を架橋しています。この橋も、大人一人1銭(後に2銭)の渡銭をとる賃取橋でした。
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