S U B - M E N U

「現代の橋梁群Profile」へ   
隅田川の橋めぐり
「橋梁群の諸元表」へ
橋梁形式、橋長などの一覧表
「明治・大正期の隅田川木橋群」へ   
洋式木橋架橋の概略史
「明治・大正期の隅田川トラス群」へ   
トラス橋架橋の概略史
「復興橋梁群の計画プロセス」へ   
型式選定プロセスの推定

江戸時代の隅田川橋梁群へ
Home Pageへ
ver.010720

現代の隅田川橋梁群
----- MAIN PAGE 1 -----



CONTENT
Main Page 1
  隅田川のこと
    水辺の再生=再び母なる川へ
  橋梁群のこと=明治・大正期の橋梁群
    隅田川の状況=洋式木橋から長大トラスへの改架
    都心地域の状況=トラスからアーチへ、そして装飾橋梁へ
Main Page 2
  ●橋梁群のこと=復興橋梁の建設
    ◆関東大地震と橋梁被害
    ◆復興橋梁の建設
    ◆復興橋梁の設計方針
    ◆復興橋梁のデザイン方針
  ●橋梁群の景観構造=その保全と創造
Main Page 2






隅田川と荒川の分流点
  左側後方へ荒川本流(旧荒川放水路)が東京湾へ流れ下り、右側の岩淵水門から隅田川(旧荒川本流)が始まる。手前が旧水門、後方が新水門。


赤水門
  旧水門は、大正13年建造の土木遺産。青山士(あきら)の設計による。赤水門と呼ばれて地域の人々に親しまれている。新水門が昭和57年に建造されて役目を終えた。

親水テラス
(清洲橋右岸上流)




スーパー堤防と親水テラス
(中央区新川地区)

隅田川のこと


  明治政府は、江戸時代の方法を受継ぐ形で、荒川の洪水に対処しました。荒川左岸の荒川堤と右岸の日本堤による巨大な遊水池で、東京を洪水から守るというものです。しかし, 江戸時代と同様、深刻な洪水の被害を受け続けます。
  (この項、江戸時代の隅田川橋梁群「江戸の洪水と橋梁」参照)

  なかでも、明治43年の洪水により、東京の下町は未曾有の被害を受けました。明治政府は、これを契機に、北区岩淵から荒川の洪水を東京湾に放流する、荒川放水路を計画します。工事は、明治45年に着工、19年の歳月を費やして昭和5年に完成しました。これ以降東京の下町は、江戸以来苦しめられた、荒川の洪水から開放されたのでした。

  昭和40年3月、この荒川放水路は、河川法上の荒川本流に位置づけられました。この結果、隅田川は荒川の支流となり、また、これまで通称名であった隅田川という河川名が、法律上の公式名称となりました。隅田川の正式な区間は、北区岩淵水門から東京湾までの23kmです。(この項、「江戸時代の隅田川橋梁群「隅田川の歴史」参照)

  このPage「現代の隅田川橋梁群」では、千住大橋から下流部の隅田川を記録しています。また、昭和40年以前の荒川本流も隅田川とし記述しています。


  ◆水辺空間の再生=再び母なる川へ

  昭和30年頃までの隅田川は、水の汚れが目立ちはじめたとはいえ「春のうららの隅田川・・・・・」のように、土手があり、水辺のある川でした。

  昭和30年代後半ころから、汚れて悪臭のひどい川になっていきました。昭和36年の記録によると、BOD(生物化学的酸素要求量)は、38mg/lと記録され、臭いの発生しない限界10mg/lをはるかに超える状態でした。「臭いものに蓋」とばかり隅田川の暗渠化が構想されたこともありました。

  さらには、昭和34年の伊勢湾台風を契機に、鉄筋コンクリートの壁のような高潮護岸が、下町低地を取巻くように建設されました。高潮護岸はカミソリ堤防と呼ばれて悪評が高く、下町の運河や河川の岸辺、あるいは海岸の渚などの水際の空間を閉ざし、運河や河川、海と地域や人々との関係をたち切ってしまいました。

  昭和60年ころから、機能性や経済性を優先させた施設づくりに大きな転機が訪れます。河川にも、人々と水との交流を大切にする、親水性を考えるようになりました。こうした状況を背景に、昭和60年架橋の桜橋は、悪名高かった高潮護岸にはじめて風穴をあけたのでした。橋の前後150mの高潮護岸を取払い、橋の整備と同時に、土盛の堤防の緩傾斜堤防や、水際の遊歩道となる親水テラスを整備したのです。人々が水辺へ近づくのを拒絶した河川管理から、水辺を楽しめる管理への転換を告げる象徴的なできごとでした。

  また、工場排水の規制強化や下水道整備が進むにつれて、水質は大きく改善され、現在では魚が棲める限界の5mg/l前後となっています。今後は、水棲生物が豊に繁殖できるように、DO(酸素溶存量)の改善に向けての取組みが求められています。



  桜橋以降、隅田川では、着実に水際の整備が進んでいます。親水テラスや緩傾斜堤防とともに、再開発と同時施工でスーパー堤防が整備されています。隅田川に背を向けていたまちなみは、じょじょに川面に向きはじめています。

  中央区新川地区のスーパー堤防にたつと、緑豊かな河岸、広々した水面、その向こうの永代橋や中央大橋、リバーシティ21の超高層建築物群などの眺めが一望できて伸び伸びとした気分になります。ここの夜景はすばらしく、色あざやかにライトアップされた各橋や超高層建築物の光の壁などが幻想的な雰囲気を醸しだし、新しい東京のデートスポットとなっているようです。

  今後は、運河、河川、海岸などの水際の空間は、都民共有の財産として公園や緑地として整備したり、あるいは民間建築物が立地する場合には公開空地の設置を義務付けるなど、都市計画的側面からの水際づくりが必要と思われます。


このぺーじの Top









吾妻橋(明治20年改架)



厩橋(明治26年改架)



永代橋(明治30年改架)



両国橋(明治37年改架)



新大橋(明治45年改架)

橋梁群のこと=明治・大正期の橋梁群


  ◆隅田川の状況=洋式木橋から長大トラスへの改架
  明治初頭の隅田川橋梁群は、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋、千住大橋の5橋でした。これらを引継いだ明治政府にとって、5橋の管理状況は、決して満足すべき状況ではなかったはずです。例えば、両国橋は、江戸期最後の改架は天保9(1838)年であり、以降破損のつど修理されてきましたが、木橋の耐用年数からいって供用の限界に達していました。

  政府は、明治5(1872)年、永代橋、新大橋、両国橋、吾妻橋の4橋を直轄管理橋梁に指定し、明治8年の両国橋と永代橋、明治9年の吾妻橋、明治18年の新大橋と順次様式橋梁へと改架しました。

  一方、次のような、新しい橋が誕生しました。明治7年、地元住民により賃取橋の厩橋が架橋されています。江戸期最後の架橋であった吾妻橋から数えて、ちょうど100年目のことでした。遅れて、明治36年に相生橋、大正3(1913)年に賃取橋の白鬚橋が架橋されました。

  明治18年7月、隅田川を大洪水が襲いました。この時、最上流の千住大橋の一部が落橋して下流に流れ出し、吾妻橋に激突して落橋させました。さらに、これら崩壊した橋梁は流下して、厩橋、両国橋、新大橋、永代橋に甚大な被害を与えました。吾妻橋架橋への幕閣の心配事が再び現実のものとなったのでした。「吾妻橋落橋の図」は、厩橋に迫りつつある千住大橋と吾妻橋の橋体を、必死に河岸に引寄せようとする水防組の活動を活写しています。(以上、「明治・大正期の隅田川木橋群」参照)

  東京府は、洪水に強い隅田川橋梁群とするため、明治20年、まず吾妻橋を錬鉄プラットトラス橋で再架しました。理屈からいえば、最初に千住大橋を鉄橋とするのが合理的と思われますが、やはり、江戸期以来の懸案である、その架橋位置を問題視したものと思われます。吾妻橋は、大阪府の天神橋や天満橋と並ぶ長大橋として話題となり、錦絵などに盛んに描かれました。

  吾妻橋以降、明治26年の厩橋を錬鉄製トラス、明治30年永代橋から鋼製トラスとなり、明治37年両国橋、明治45年新大橋と、スローテンポではありましたが、木橋を順次鉄橋に改架して行きました。なお、千住大橋が鉄橋となったのは、関東大震災後の昭和2年のことです。

  こうして、明治末の隅田川筋には、橋長200m級の長大トラスによる橋梁群が出現しました。(以上、「明治・大正期の隅田川トラス群」参照)







鎧  橋
(明治21年改架 鋼プラットトラス)



江戸橋
(明治34年改架 鋼3ヒンジアーチ)



江戸橋飾り板詳細図




呉服橋
(大正3年改架 鋼2ヒンジアーチ)



一石橋
(大正11年改架 RCアーチ)

  ◆都心地域の状況=トラスからアーチへ、そして装飾橋梁へ

  日本橋、京橋、新橋、神田など、東京都心地域では、隅田川橋梁よりも一足早く、耐久橋の建設が始まりました。明治4年、東京で最初の鉄橋が新橋に架けられます。続いて、明治11年、我国で始めて加工制作したボースとリングトラスの弾正橋がかけられ、以降明治20年代にはもっぱら各種のトラス橋が架けられました。

  木橋から鉄橋への改架がはじまるわずかな期間に、東京で石橋が架けられました。明治6年から10年までの5年の間で、万世橋をはじめ11橋もの石造アーチが架けられました。霊台橋、通潤橋などの長大な石橋を架けた、肥後の石工達によるものでした。しかしこれらは、明治中頃からの市区改正(現在の都市計画)に基づく道路拡幅や、基礎の沈下などで比較的短期間に改架され、現存するのは日本橋川の常磐橋が唯一のものです。

  明治30年代には、特徴的な鋼アーチ橋が架けられます。浅草橋や江戸橋、万世橋など、スパンドレルを鋳鉄製の飾り板で飾る、装飾過剰の橋梁でした。アーチ橋は都市環境に調和する、という美意識はこの頃から醸成されたものと思われます。

  トラス橋、特に下路式は、橋上の部材がわずらしい、橋の内外の眺めを妨げ圧迫感があるなどと、評判はかんばしくありませんでした。これに対して上路式のアーチ橋は、優美なアーチリングによって、桁橋やトラス橋を凌駕する美的な橋梁との評価を受けたのでした。

  明治44年、明治期の最後を飾るにふさわしい橋、日本橋が架けられました。豪華な彫刻や石組で飾られ、明治国家の威信を示すものでした。日本橋はまた、装飾橋梁への幕開けを告げるものでした。

  橋に装飾を施した装飾橋梁は、日本橋、新大橋のころから顕著になり、震災前まで続きました。構造設計は橋梁技術者、装飾設計は主に建築家が行っていました。市区改正に基づく道路整備を進めるに際して、都市景観の観点から、市内の要所を彩る橋梁が必要になったわけです。美しい石組の橋体や親柱、また装飾性に富んだ高欄や橋灯などが、装飾橋梁の特徴です。

  この時期をリードしたのは、東京市の樺島 正義です。彼は、日本橋をはじめ、新大橋、四谷見附橋、呉服橋など大正期を代表する橋梁を手がけました。また、コンクリート橋が一般化するのもこの頃です。代表的なものとして、鍛冶橋、高橋、一石橋などの鉄筋コンクリートアーチ橋があります。これらも、やはり樺島の手になる橋梁です。

  こうした鉄やコンクリートによる耐久化の進捗状況は、1年あたり2、3橋と、東京府(市)の厳しい財政状況から遅々としたものでした。関東大震災直前の統計によると、東京市内の橋梁数675橋のうち木橋420橋(62%)、鉄橋60橋(9%)、鉄筋コンクリート橋51橋(8%)(コンクリート橋を含む)、石橋144橋(21%)であり、耐久橋の建設は17%にすぎない状況でした。


このぺーじの Top  Main Page 2