ver.031004

江戸の洪水と橋梁




/江戸時代の隅田川橋梁群Main Pageへ /Home Pageへ/



     今戸橋の親柱と高欄   
  山谷掘と隅田川の合流点に位置
  していたが撤去された     
 現在は、親柱と高欄が歩道際に
  残されている         


   山谷掘跡の親水公園
 山谷掘は、江戸初期に開削され
 北区王子で石神井川に接続する
 運河であった        
 親水公園は、山谷掘の下水暗渠
 化に伴いつくられた     


 土手通り
 4車線道路と昔の土手の面影は
 まったくない        
 浅草寺門前の観光人力車が  
 吉原へでも行くのであろうか 
 走っている         


◆隅田川の洪水制御=日本堤と墨田堤

  天正18(1590)年、徳川家康は江戸城に入ると、関東平野の河川水系を組替える大河川改修工事を行いました。
  しかし、しばしば荒川・入間川(隅田川)水系による洪水や、江戸期をとおして何度かの利根川堤防の決壊による洪水に悩まされつづけます。ひるがえって、入間川筋に荒川を接続したのは、江戸湊の舟運を維持するため、水害を受け入れてでも荒川の水量が必要であったからです。(この項、「隅田川の歴史」を参照)

  江戸中心部を洪水から守るため、右岸には日本堤と呼ばれる堤防を、左岸には連続堤防を建設しました
  日本堤は、山谷堀の南側に平行するように、台東区今戸から北西に三ノ輪まで、上野台地に接する間に築いた堤防です。非常に大規模なものであり、延長約1.5km、堤防の上端は、幅4間(約7m強)の道路となっていました。現在、この堤防跡は、「土手通り」と呼ばれる道路となっており、また、その名は台東区日本堤の住所表示として残されています。
  左岸側は、荒川にそって、熊谷から千住の間に熊谷堤、荒川堤と呼ばれる堤防が築かれます。千住で一旦切れた堤防は再び墨田堤となって、右岸今戸のやや下流の対岸にあたる墨田区役所の位置まで続いていました。

  これらの堤防は、江戸中心部の上流に、荒川右岸の朝霞台地−上野台地など洪積台地−日本堤のラインと左岸側の熊谷堤−荒川堤−墨田堤のラインとで囲まれた巨大な遊水地帯をつくり、隅田川の洪水を制御することでした。遊水地で受けとめた洪水は、日本堤と墨田堤との狭窄部から、下流部の排水能力に応じてじょじょに流出させるというものでした。

  この狭窄部より下流部で堤防を築かなかった理由は、江戸湊に必須の物揚場や河岸を設けるためでした。

 
日本堤・墨田堤による狭窄部と遊水地
(中小河川を省略した概念図。ただし県区境は現在のもの)

図中の「日本堤」「隅田堤」をクリックすると、
それぞれの場所を描いた浮世絵を閲覧できます
(出典:「国土交通省荒川下流河川事務所ホームページ」[00'/07版] 橋名等追加修正)


 洪水(安政風聞集)

◆常襲する洪水=水害都市江戸

  江戸は、隅田川の洪水制御への取組みにかかわらず、江戸時代を通して、たびかさなる洪水に悩まされ続けます。
  古くは、慶長元年(1596)6月の大雨により、浅草あたりで溺死者の記録があります。元和3(1617)年4月の大風雨で入間川が増水し千住大橋が損害を受け、同5年8月にも洪水のため民家の流出が多く、餓死者が町にあふれたといいます。日本堤が築かれたのは、この翌年のことでした。万治2(1659)年7月の大雨では、浅草の幕府米蔵が浸水したとの記録があります。

  特筆すべきは、寛保2(1742)年8月の隅田川出水です。8月2日、両国橋あたりで通常より5尺増水。翌3日、白鬚あたりで墨田堤が破堤、向島地区が浸水。さらに、上流の綾瀬、千住あたりでも破堤したため、下流部では3尺減水したという。ところが、5日、利根川の堤防が決壊し、洪水が向島地区から隅田川に流入、再び2尺増水しました。
  洪水による死者は、本所地区3千人、向島地区2千人、この他越谷4千人、粕壁2千人、杉戸2千人などの記録があります。

  この洪水への幕府の対応は、御舟手の救助船出動、町方の船の動員、施行の実施(緊急食料の配布)、救小屋の建設、物価・賃金の安定対策の実施などです。ちなみに、施行の規模は、施行が終了した23日までの間、延べ187千人分、これに要した米は367石にのぼったといいます。
  また、町方が動員した救助船数と救助した人数は、総計1,218艘、3,357人、他に御舟手5組で1,420人を救助しています。

  天明年間(1781〜88)も洪水が多く、天明2(1782)年9月、隅田川増水、翌3年6月の出水で浅草、小石川、小日向あたりに被害、同6年7月にも本所、深川一帯に被害がありました。この水害は、翌年5月の「天明の打ちこわし」の発生要因の一つになりました。

  また、文政5(1822)年、同6年、同7年、同11年と洪水が続きました。弘化3(1846)年の洪水は利根川が破堤、本所、深川地区で大きな被害が生じています。


江戸時代の隅田川架橋年表
文禄  3(1594)年:千住大橋架橋
寛文 元(1661)年:両国橋架橋
元禄  6(1693)年:新大橋架橋
元禄 11(1698)年:永代橋架橋
安永  3(1774)年:吾妻橋架橋


(参考)河川改修関係
寛永  6(1629)年:荒川締切
承応  3(1654)年:赤堀川通水
           (東遷完成)



◆洪水と橋梁=平均2.5年に1回の被害

 洪水による橋梁の被害記録を見ると、江戸時代を通して数多く残されています。江戸の橋梁は、平均して2.5年に1回ぐらいの割合で何らかの被害を蒙っていました。
  また、風水害の季節的な頻度は、夏から秋に多く、9月が45回、8月が30回、10月が21回といった統計があります。比較的大規模な水害事例は、以下のようです。

  万治2(1659)年7月、両国橋(大橋)の仮橋60間余りが激流にさらわれ、寛文6(1666)年5月、出水により両国橋の橋杭が押し流され、延宝8(1680)年8月には大風雨で両国橋が崩壊し溺死者7百余とあります。
  元禄7(1694)年、亨保13(1728)年には大洪水があり、特に亨保の洪水は江戸市中のほとんどの河川が氾濫し、隅田川の新大橋、神田川の石切橋、中之橋、竜慶橋、船河原橋、昌平橋、和泉橋、柳原新し橋、柳橋などが押し流されています。
  亨保19(1734)年にまた両国橋の仮橋が流失、天明元(1781)年の隅田川大出水では千住大橋仮橋、新大橋、永代橋の一部、両国橋の損壊と4橋が被害を受けています。

  洪水による橋梁の被害のパターンは、上流の橋が崩壊し、流下した橋げたなどの材木が次ぎの橋に引っかかって崩壊させるというようにして、次々と橋が流失するケースが多かったようです。また、繋留されていた船が流されて、それが橋杭に当たって橋を壊すという、舟当という事故も多くあったといわれています。
  元禄9(1696)年の町触に、次ぎのようなものがあります。「風雨または水出候節、流船これあり橋杭へ懸かり、橋のため悪しく候間、町中河岸々々ならび川中につなぎ置き候船ども、風雨の節は別して念入り流れ申さぬようつなぎ置き申すべく候。自然、船頭居合せ申さず候わば、その所の町人ども心をつけ、船よくつなぎ置き、流れ申さず候よう仕つるべく候。もし不念いたし流船これあり候わば、御取上げならるべく候間、船主船頭どもは申すに及ばず、河岸々々の町人ども、この旨きっと相守るべきものなり」


両国橋橋詰の重石
袖高欄の川側に積上げてある
のが見える        
(江戸東京博物館両国橋西詰模型)
(サムネイルをクリックすると
 フルサイズの写真を閲覧できます)

◆洪水と橋梁=橋の水防体制

  千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋の4橋は、幕府が直轄管理する御入用橋でした。したがて、これらの修理や架替は、原則として幕府により行われていました。しかし、洪水への非常時の対応は、町人達の組合に負担させていました。橋詰には、橋番屋が置かれました。番屋には町々の組合で雇っている橋番人がつめ、小舟が常備され、太綱、手鈎、重石などが置かれていました。
  重石は、大水で流れが激しいときに、これを結んで橋脚に吊り下げ、橋の振動を防ぐのに使いました。
  第8代吉宗は、治世中に大洪水をたびたび経験しました。このため橋梁の水防に熱意を示し、出身地の紀州熊野灘で捕鯨に用いられていた鯨船を取寄せ、橋梁の付近に常備させました。この船は、八丁艪で小回りがきき、高速で急流を乗り切るのに適していたからです。

  常番の橋番は、非常時の対応もさる事ながら、橋利用者の日常的な取り締まりに当たるのが本務でした。そこで、非常時の予備部隊とでもいうべき、水防請負人制度がありました。これは、両岸の約百ケ町から人足を派出させる制度です。大水のときに橋を守るのを任務とし、上流から押し流されてくる船や材木を引っぱりあげたり押し放したりしました。激流の中での作業は、流木に飛び乗ってさばくなど、火消しの梯子乗りに匹敵する危険な一種の軽業であったようです。