S U B - M E N U
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現代の隅田川橋梁群
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Main Page 1 |
●隅田川のこと |
◆水辺の再生=再び母なる川へ |
●橋梁群のこと=明治・大正期の橋梁群 |
◆隅田川の事情=洋式木橋から長大トラスへの改架 |
◆都心地域の事情=トラスからアーチへ、そして装飾橋梁へ |
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●橋梁群のこと=復興橋梁の建設 |
◆関東大地震による橋梁被害 |
◆復興橋梁の建設 |
◆復興橋梁の計画方針 |
◆復興橋梁のデザイン方針 |
●橋梁群の景観構造=その保全と創造 |
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大正12年9月1日の関東大地震により東京、横浜など関東地方の各都市は、甚大な人的、物的被害を受けました。橋梁の被害も甚大て、東京市の場合は以下のようでした。
市内の橋梁数は、地震前の統計によると、675橋でした。このうち、震害を受けたものは2.7%とわずかでした。しかし、焼失などの火害を受けたものが多く、全体の50%と被害の大部分を占めました。木橋420橋の66%のほか鉄橋60橋の82%と、鉄橋の被害が非常に多かったことは特筆されます。
これは、鉄橋でも工費節減のために、床や床組などに木材を使用するのが一般的であったことと、架橋位置が市街地にあったことによるものです。鉄橋の火害は、大地震の際発生した市街地大火により、附近家屋からの飛火や橋上家財の燃焼などにより、また橋下船舶の火災などにより、木造の床や床組がすべて焼失したり、さらには鉄製部材も変形するなどの状況でした。
隅田川筋では、永代橋、両国橋、厩橋、吾妻橋が火害により機能を失いましたが、床組に鋼、コンクリートを用いていた新大橋のみが被害をまぬがれています。
他方、震源に近い神奈川県内では、橋脚倒壊、落橋などの震害が多発しています。 横浜市を例にすると、橋梁108橋のうち震害を受けたたもの(同時に火害を受けたものも含む)74%、火害を受けたもの10%と、ほとんど壊滅状況でした。
こうした被害状況を踏まえて、耐火、耐震性の高い橋梁を目指して、復興事業がはじまりました。(この項、復興橋梁資料室「資料ー2 関東大地震と震災復興」参照)
復興橋梁は、内務省復興局、東京市の役割分担のもと425橋が架橋されました。内訳は、復興局115橋、東京市310橋です。
隅田川には、永代橋、清洲橋、両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋および隅田川派川(現在、晴海運河と呼ばれている)の相生橋の9橋が架橋されました。これに、後に述べる白鬚橋を加えて、隅田川10大橋と呼ぶことがあります。
9橋のうち、復興局によるものは永代橋、清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋、相生橋の6橋であり、東京市によるものは両国橋、厩橋、吾妻橋の3橋です。復興局による6橋は、隅田川6大橋と呼ぶことがあります。
また、復興橋梁と同時期に、復興事業と連携して事業が進めれれた都市計画事業の一環として、東京府により白鬚橋と千住大橋が架橋されました。
復興局による隅田川橋梁の計画は、次の方針により進められました。(この項、「復興橋梁の計画プロセス」参照)
- 隅田川は帝都の中央を流れ、商工業を荷う物流の大動脈をなし、かつ帝都の主たる景観をなしている。
すなわち、隅田川6大橋は、帝都の中核的景観を構成するものであり、帝都の偉観たるべきである。- このため、所管する東京市関係橋梁費の約3分の1を投資する。
- 両国橋、厩橋、吾妻橋も老朽化し、また震害を受けており架替の必要が生じている。したがって、隅田川筋の橋梁景観は一新することになるので、それぞれの型式について全体の調和に配慮して計画するものとする。
(両国橋の架替は当初計画にはなく、復興事業が相当進捗したところで架替決定がなされた)
以上の計画方針のもと、次のように型式選定がなされました。なお、東京市についても、復興局の方針を原則として架橋にあたっています。
- 構造的にその架橋地点に最も妥当な型式であること。
- 景観的にもすぐれていること。
- 構造上また景観上、主桁は充腹構造としトラス構造を採用しないこと。
トラス桁と鈑桁の利害得失は、一つの問題として残されている。ここで、一貫して鈑桁を採用することにしたのは、次ぎの理由からである。
- トラス桁は、構造が複雑であり、格点の剛性に基づく二次応力の影響が大きい。
- トラス桁は、構造が複雑であるので、外観に煩わしいものがある。
- 鈑桁は、二次応力の影響を考慮する必要がなく、また部材の弱点が少ないために寿命が長い。
- 鈑桁の各部材の重量は、トラス桁のそれと比較して大きくなるので、運搬や架設の際に難点となる。しかし、こうした欠点はあるものの、結局丈夫なものを採用するのが得策である。
- 地質の軟弱な地点では、井筒あるいは潜函など深層基礎を採用し、比較的良好な地点では、下部工底面を広くする構造を採用すること。
以上のほか、型式選定における特に重要な計画条件として、橋梁と地先宅地地盤との高低差の問題がありました。
東京の下町は、沖積低地の特徴的地形から、地盤の低い地域が広がっていました。特に、隅田川左岸の江東低地では、満潮位とほぼ同レベルの地盤が広く分布する状況でした。こうした地域に架ける橋は、桁下に船舶の通行空間を確保すると、橋面と地先宅地地盤とに相当の高低差が生じるのが一般的でした。このため、桁高をしぼったり、道路縦断勾配を既定値の範囲内でできるだけ大きく取るなどの対応が必要でした。しかし、これでおさまらない場合には、下路橋の選定など、橋梁型式で対応する必要がありました。隅田川右岸地域の復興橋梁は上路型式が多く、左岸地域では下路型式が多いのは、こうした両岸の地盤高の差が大きく係わっています。
また、隅田川橋梁群についても、架橋地点の地盤高が、橋梁型式決定の主要な要因になった例を次のようにあげることができます。
- 「蔵前、吾妻、言問橋では、アプローチ個所を高めることが可能であったので全長にわたる上路型式をとり……」との記録がある。(「関東震災と隅田川の橋梁群」成瀬勝武 スチールデザイン No.164 p-7 昭和52年12月 新日本製鐵)
- 蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋の4橋は、いずれもアーチ橋であるが、順に上路橋、下路橋、(上路+下路)橋、上路橋となっている。これは、それぞれの地先地盤高によって決められたものである。(各橋のProfile を参照)
復興局による橋梁のデザインは、大正期の装飾橋梁を否定し、機能主義的橋梁へと大きく転換しました。これは、短期間に425橋という多くの橋梁を架橋しなければならない状況と質実剛健な橋梁により復興の精神を表現する立場からのものでした。
帝都復興事業誌では、「装飾的橋梁が、美しき橋梁なりとするがごとき誤謬を棄てなければならぬ」、「すべての橋梁は、充分目的に適える構造を有するとともに、その構造は表現において充分目的に適える美を有せなければならぬ」と主張しています。(帝都復興事業誌「第六目 意匠及び照明」「第一 橋梁美」参照)
橋梁各部のデザイン原則は、上記文献によると次のようでした。
- 1.主桁・アーチリングのデザイン
- 主桁の外観は、水平方向の伸長力と垂直方向の荷重に耐える落着きがあること
- アーチリングの外観は、下部構造を踏みしめ、空間を越える形態を凛然たらしめること
- 主桁、アーチリングは、力の観念を表現すべき部分であるから装飾は一切用いないこと
- 2.橋台・橋脚のデザイン
- 橋台・橋脚の頂部には笠石を配する以外まったく装飾は行わない
- アーチ橋の橋脚には水切りをつけて荘重感をだす
- 橋台は護岸より少し突出させて、その堅固な形態を強調する
- 3.親柱・高欄など
- 橋の存在を意識させる場合には、装飾と照明をかねて親柱を路上高くたてて、高欄・灯柱にも趣を与える
- 橋の存在を意識させない場合には、特段のデザインを施さず単純なものとする
復興局の橋梁デザインは、主として土木部橋梁課において実施しましたが、一部は建築部技術課の助力を得ていたようです。また、山田守(神田川橋梁群「聖橋」のPrfie参照)、岡村蚊象(後の山口文象)(日本橋川橋梁群「豊海橋」のPrfie参照)などの建築家を嘱託技師として迎えていました。彼らは、比較設計のパースや装飾イメージ図の作成にあたっていました。
なお、土木部長の太田円三は、橋梁デザインの参考とするため、実弟の太田正雄(詩人の木下杢太郎)、岡田三郎助、木村荘八などを招いて彼らの意見を聴いたり、また橋のデザイン案を公募するなどの取組みをしています。しかし、「それらの結果は、多くの暗示を得るに役立ったとはいえ、力学から離れた感覚が多かったために実用に遠い憾みがあった」との記録があります。(関東震災と隅田川橋梁群 成瀬勝武 スチールデザイン 昭和52年)
デザイン案は、復興局内の工作物意匠調査委員会にかけて適否を審査しました。同委員会は、建築部、土木部の関係者及び局外の建築家よりなり、橋梁のほか公園その他の工作物も審査の対象にしていました。
隅田川橋梁群は、帝都復興を象徴する事業でした。復興局は、新しい材料や技術を導入して長大スパンに挑戦するなど、当時最新の橋梁技術を駆使して建設にあたりました。しかし、各橋を個々に計画・設計したばかりでなく、既存の文献や実際の型式選定結果などから、次のように橋梁群全体のありようを構想したものと考えられます。
- 永代・清洲両橋を一対の橋梁として計画し、隅田川河口部に橋梁群景観のピークを置くこと
- 永代橋と清洲橋は、復興局が最も力を入れた橋梁である。両橋については早い時期か ら検討が進められた
- 永代橋は隅田川河口を占める「帝都の門」にふさわしい巨姿を強調できる型式を基本とし、清洲橋は永代橋と対比しながら計画された
- 両橋は、Twin Gatesということができる。(*)
- 永代・清洲両橋の周辺に下路橋を配置し、または配置しないことにより、両橋の存在を強調する
- 両橋のスケールを強調すると同時に、間隔810mと遠望する位置関係にある両橋の連携を強化するため、豊海橋、上之橋、万年橋など小規模な下路橋を配置した
- また、永代橋より下流部には、前景として目につきやすい下路橋を配置しなかった(この項、「永代橋」、「相生橋」のProfile参照)
- 蔵前・厩・駒形・吾妻4橋を一群の橋梁として計画し、橋梁群景観の第二のピークを置くこと。
隅田川橋梁群は橋の展覧会場といわれるように、復興10大橋は、すべて橋梁型式が異なっています。このため、個々に計画がなされたように見えるが、橋梁群をマクロ的に見ると上述のような景観構造が存在しています。
橋梁群を改架する場合には、個々の計画を検討する他、こうした景観構造への配慮が重要です。
例えば、蔵前〜吾妻4橋のいずれかを改架するとすれば、少なくとも4橋全体の改架を前提として型式を考える必要があります。また、豊海橋や万年橋を改架する場合には、永代橋や清洲橋との関係や、両橋の橋梁群における位置付けなどを考慮する必要があります。
この例にあげた各橋の管理機関は、建設省、東京都、中央区、江東区に分かれます。したがって、橋梁群景観の保全にあたっては、各管理機関の連携が不可欠です。また、橋梁群景観の保全にかかわる共通認識を得るため、各機関の協力のもと早期に景観管理計画を策定する必要があります。
他方、橋梁群各橋の位置づけは、架橋当時から大きく変貌しました。「首都の門」は、永代橋から勝鬨橋に移り、さらにレインボーブリッヂが取って代っています。相生橋は、架橋当時の海岸線からはるかに内陸部に位置するようになり、目立たない、邪魔にならない橋である必要はなくなリました。永代橋と清洲橋との関係は、隅田川大橋により、ほとんど断絶状態です。
また、隅田川自身も大きく変貌しつつあります。派川の分流点附近では、スーパー堤防の整備が進み、緑豊な河岸と広々とした水面、その向こうの超高層建築物群のある魅力的な空間が生まれつつあります。今後も河岸の再開発などにより、特徴のある空間が新たに生まれてくるものと思われます。
橋梁群の改架、また新たな架橋に際しては、こうした状況変化を考慮して計画することが必要です。例えば、橋梁群による新たな景観構造を、分流点附近に創造することが考えられます。この場合、中央・永代・相生の3橋は、分流点附近の空間を区画する、一群の橋として把握することが適切になります。
復興橋梁群は、復興事業のモニュメントとなるよう明確に意識されて計画されたものです。また、明治以来の橋梁技術の達成度を示すモニュメントでもあります。復興橋梁群の架設後70年、まだまだ立派に現役の役目を果たしています。供用100年を目指して、今後、一層密度の高い維持管理が望まれます。