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相 生 橋(あいおい ばし)
- 橋梁形式 3径間連続鋼床版
プラットトラス橋
- 橋 長 149.1m
- 幅 員 36.8m
- 架設年次 平成11年11月
- 建設機関 東京都
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 JR京葉線越中島駅
地下鉄有楽町線月島駅
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相生橋(明治36年架橋 撮影年不詳)
相生橋旧橋(復興橋梁)
- 橋梁形式 本橋:鋼ゲルバー鈑桁橋
小橋:鋼単純鈑桁橋
- 橋 長 本橋:146.0m
小橋: 45.8m
- 幅 員 22.0m
- 架設年次 大正15年11月(復興局)
- (*1)帝都復興事業誌 土木編上
- 復興事務局 昭和6年3月 P-343
- (*2)震災復興事業について
- 復興局土木部長 大田 円三
- 大正13年10月 P-145
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相生橋は、中央区佃3丁目と江東区越中島1丁目の間で都道463号「清澄通り」を渡す橋である。隅田川派川に架かり、創架は明治36年3月、月島の埋立完成にともなう水道整備のため架橋された。東京都心に近いにもかかわらず、長年にわたって隅田川に隔てられていた、佃島と月島住民の熱望が実ったものである。
橋名は、永代橋に相対するする橋として名づけられた。越中島側に中之島という中州があり、相生橋はここで二分された形となっていた。佃島と中之島との間を相生橋、中之島と越中島との間を相生小橋と呼んだ。なお、現在、小橋の部分は埋立てられて中之島公園となっている。
大正8年に、再度木橋として改架された。その構造は、主橋部が木鉄混合ハウトラス橋、小橋が木造桁橋であった。
大正12年9月の関東大地震の際、上流から炎上しながら流れたきた船のために焼失した。
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旧橋(現橋に対して)は、大正15年11月、関東大震災の復興事業により再架された。復興橋梁のなかで、最初に完成した橋梁であった。旧木橋焼失後の3年余りの間、佃島と月島は橋のない渡しにたよった状態であったため、架橋を急いだものである。
相生橋の形式選定は、本橋が隅田川派川の橋梁であること、また海辺の埋立地にあるので、多径間の桁橋という一般的な形式を採用した。架設費は、復興局所管の六大橋のなかで、最も安価であった。なお、本橋の特徴について、次ぎの記録がある。(*1)
- 上路橋であって、橋面上に構造物がないから、眼界開け、遠望して風光を遮らない
- 短径間であるから、仮に潮害にあっても架替が簡単である
また、本橋の形式について、「永代橋附近から見て天空の眺めを邪魔しない様にという考えから、この様な構造を選んだ次第であります」との記録がある。(*2)
これらから、本橋は、永代橋からの眺望を邪魔しないように、また隅田川派川の下流から遡るとき、「帝都の門」たる永代橋の景観を邪魔しないように計画されたものと思われる。
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歩道部
橋灯は旧橋の形を復元した
中之島公園の親柱
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現橋は、復興橋梁の老朽化したため、昭和63年に架替に着手し、平成11年8月に完成した。工事の手順は、仮橋を架設後に旧橋を撤去して新橋を架けるものであったが、「清澄通り」の幹線交通を確保しながらの工事であったことなどから長期間を要したという。
形式は、3径間連続鋼床版プラットトラスである。幅員が広いため、主構が3面となっている。隅田川橋梁群のなかで、道路橋としては唯一のトラス橋である。高欄や橋灯、歩道舗装など、ディティールに富んだデザインにより、楽しい歩行者空間を創っている。橋灯と中之島公園側の親柱は、旧橋の形を復元した。
かつて復興局は、トラス構造を採用しない、という方針のもとに復興橋梁の建設にあたった。その理由は、格点の剛性にともなう二次応力の問題、複雑な部材組のわずらわしさなどであった。
現代の溶接技術と高張力鋼は、単純な格点構造をもたらし、二次応力を副次的問題とした。また、部材はスレンダーで、かつ構成も単純化されている。こうした、技術的成果があって、本橋にトラス構造を選定したのであろうか。
隅田川橋梁群は、橋の展覧会場と呼ばれ、さまざまな形式の橋がある。橋梁群の価値は、形の多様性そのものにあるとは思えない。橋梁群の形の多様性は、それぞれの架橋地点の地質条件や取付部の高低差の制約など、厳しい架橋条件へ適合した結果であり、適合するために払われた技術的、造形的工夫にこそ価値があるものと思える。
本橋をトラス橋とするならば、既製品のトラスではなく、明治のトラス橋、例えば南高橋の部材組が織りなす空間を、現代の技術によって凌駕して欲しかった。
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