◆◆◆ 永代橋は、中央区新川1丁目と江東区佐賀1丁目の間で都道10号「永代通り」を渡す橋である。 創架は元禄11(1698)年、将軍綱吉の50歳を祝し幕府が架橋した。橋名は、佐賀町あたりを永代島と呼んだことによる。隅田川で第四番目の橋であった。 「江戸時代の永代橋Profile」へ 明治8(1875)年、両国橋とともに、新しい洋式木橋に改架された。 「明治・大正期の隅田川木橋群」へ 明治30年11月、道路橋として我国最初の鋼プラットトラス橋に改架された。架橋位置は、江戸時代の橋より200mほど上流である。 関東大地震の際、附近家屋よりの飛火と橋上に持込まれた家財の燃焼などにより、また橋下船舶の火災などにより、木造の床組はすべて焼失し、鉄骨部材も変形などの火害を受けた。 「明治・大正期の隅田川トラス群」へ
◆◆◆ 現橋は、大正15年、関東大震災の復興事業により再架されたものである。 永代橋は、当時、隅田川河口を占める橋梁であった。その型式については、「帝都の門」となるよう、河口に巨姿を強調できる型式を基本として、復興事業の早い時期から検討が進められた。 永代橋と上流の清洲橋の間は、隅田川筋で最も支持層が深い軟弱地盤である。このため、施工性から基礎工の規模を大きくするのが有利であった。中央径間は、船運状況も加味して、支間長330ft(100.584m)としている。 基礎工は深層基礎となるので、当時最新のニューマッチクケーソン工法が採用された。工事は、アメリカから3人の技術者を招き指導を受けて施工した。 上部工型式は、主径間を下路式バランスド鋼タイドアーチ、側径間を単純鋼吊桁である。この計画は、従来は吊橋の領域であった330ft超級支間に、アーチ橋で始めて挑戦する意欲的なものであった。 アーチリブは、復興局の一般方針に基づき、函形鋼鈑桁のソリッドリブとし、アーチ曲線をダイナミックに強調することとなった。タイには、海軍で研究中のデュコール鋼を採用した。高張力鋼を用いることによりタイ断面を縮小し、路面へ突出するのを避けた。 バランスドタイドアーチ型式により、支点の水平反力を相殺し、また外的静定構造物とすることにより軟弱地盤へ適合させている。なお、この型式では、吊桁の設計スパンを小さくできるので、その分桁高が低くなり、地先地盤との高低差を軽減している。 復興橋梁の建設にあたって、多くの新しい技術が導入された。ニューマチックケーソン工法や鋼矢板締切工法の導入、構造用高張力鋼の採用、大型材料試験機や架設用重機船の活用などがある。これらの技術は、下記の万代橋の例のように、全国に広がり、我国の橋梁技術の発展に大きく寄与した。 万代橋(*)は、新潟市内の信濃川に架かる橋である。その基礎工の施工には、ニューマッチクケーソン工法が採用された。工事は、永代橋建設に従事した復興局技師正子重三の率いる技術者達によるものであった。この橋は、昭和39年6月の新潟地震(M=7.5)によく耐え、多くの新しい橋が破壊するなか、震災復旧に貢献した。新潟市民に愛され、平成11年、架橋70年を祝う式典が開催されている。
◆◆◆ 本橋は、隅田川橋梁群のなかで、上流の清洲橋とともに復興局が最も力を入れた橋梁である。「帝都の偉観たるべきである」とした橋梁群景観のなかでも、これら2橋は、景観的クライマックスをなしていた。 永代橋と清洲橋の2橋は、径間割から、ランドマークとして格好の下路式橋梁である。両橋の計画について、次ぎの記録がある。(*) 「永代橋は隅田川河口の大橋、この橋が太古の恐竜のように、大川を爬行して渡るのに対して、その上流の清洲橋は優しい吊橋の姿を水に映し、そのよきコントラストが都市美に抑揚を与えるように計画された」 (*)「関東震災と隅田川の橋梁群」 成瀬勝武 スチールデザイン No.164 p-6 昭和52年12月 新日本製鐵 さらに復興局は、小規模な下路式橋梁を巧みに配置し、もしくは配置しないようにして、2橋による景観的クライマックスを、次ぎのようにに演出している。 永代橋と清洲橋の周辺に、豊海橋(*1)、上之橋(廃橋)(*2)、下之橋(廃橋)(*3)、万年橋(*4)などの小規模な下路式橋梁を配置する。これにより、両橋のスケールを強調すると同時に、間隔810mと遠望する位置関係にある両橋の連携を補強する。 (*1)日本橋川第一橋梁 昭和2年 L=46.8m フィーレンディール (*2)仙台掘川第一橋梁 昭和5年 L=34.0m タイドアーチ (*3)油堀川第一橋梁 昭和3年 L=25.8m トラス (*4)小名木川第一橋梁 昭和5年 L=56.6m タイドアーチ 永代橋より下流には、例外的事例を除いて、前景として目につきやすい、下路式の橋梁を配置しない。これにより、両橋の景観的クライマックへの影響を避ける。 上記例外的事例として、南高橋(*4)がある。 南高橋は、亀島川河口に位置し、東京市が架橋した橋である。復興事業の完了直前に架橋が決定され、急遽両国橋の中央径間を移築したものである。現在は、隅田川からは水門に隠れているが、架橋当時は、隅田川を遡る船から良く見えたはずである。特に復興局関係者は、にがにがしい思いでこの橋を眺めたのではなかろうか。(トラス橋である南高橋は、トラスを架けないとする復興局の方針にも反した) なお、永代橋より下流の下路式橋梁には、南高橋の他、稲荷橋(廃橋)(*5)と海幸橋(廃橋)(*6)とがある。これらは、それぞれアーチ系の橋梁であるが、隅田川からのぞき込まないと視野に入らない位置にある。 (*4)亀島川第一橋梁 昭和7年 L=63.1m プラットトラス (*5)桜 川第一橋梁 昭和4年 L=39.3m タイドアーチ (*6)築地川支線 昭和2年 L=27.5m ランガーガーダー (第一橋梁の安芸橋の上流に位置し、築地市場入口に架かる)