ver.001123
隅 田 川 大 橋
(すみだがわ おおはし)
- 橋梁形式
主径間 3径間連続鋼床版箱桁橋
高架部 7径間 単純鋼床版箱桁橋 1連
単純合成桁橋 4連
単純PC桁橋 2連
- 橋 長 385.3m
右岸高架部72.2m、河川部210.0m
左岸高架部103.1m
- 幅 員 30.0m
- 架設年次 昭和54年10月
- 建設機関 首都高速道路公団
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 地下鉄半蔵門線水天宮前駅
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永代橋からの隅田川大橋の眺め
清洲橋が後方にわずかに見える
清洲橋からの永代橋の眺めである
かつてこのようなアングルがあった
歩道部
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隅田川大橋は、中央区日本橋箱崎町と江東区佐賀1丁目の間で都道475号を渡す橋である。創架は昭和54年、首都高速道路9号線の建設に合わせて架橋された。2層橋であり、上層が高速9号線の高架橋、下層が一般の道路橋=隅田川大橋となっている。
本橋は、永代橋と清洲橋のほぼ中間に位置している。これら2橋は、隅田川橋梁群の景観的クライマックスを成しているのだが、間隔810mと遠望する位置関係にあるのが弱点であった。したがって、本橋は、両橋の連携を補強する絶好の位置を占めていることになる。
しかしながら、壁のような橋体は、一体的にデザインされた両橋を視覚的に分断してしまった。本橋は、隅田川橋梁群が有する景観構造の、最も価値ある部分を破壊した。
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昭和50年代は、経済成長の安定期に入り、ゆとりと豊かさのあるもの造りが重視されるようになった時期である。本橋でも、カラフルな歩道舗装や歩道部におかれた石造りの親柱などに時代が反映されている。
しかし全体としては、機能性や経済性を優先させた、高度経済成長期の橋づくりの傾向が色濃く残されている。本橋を渡るには、階段かスロープでほぼ7mほどを昇り降りしなければならない。橋面は、上部に高速道路がおおっているので薄暗く、橋上の開放感はない。高速道路のむき出しの桁下や高欄などディテールに乏しい。
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隅田川の最初の橋は、千住宿に架けられて、大橋と呼ばれた。(後の千住大橋) 次ぎの橋は、両国に架けられて、やはり大橋と呼ばれた。(後の両国橋) 3番目の橋も、新しい大橋、新大橋と呼ばれた。
新大橋の東詰あたりに住んでいた芭蕉は、この橋が架けられた喜びを「ありがたやいただいて踏むはしの霜」と詠んでいる。隅田川架橋への江戸町民の喜びようがわかる。大橋という橋名には、大川に架けた渡したありがたい橋、架橋を可能にした力(財政的、技術的)への畏敬の念など、隅田川架橋を熱望した江戸町民の思いが込められていたように思える。
江戸期には、つづいて大川橋(後の吾妻橋)と永代橋が架橋されたが、いずれも地名をとって橋名とした。大橋は新大橋までで、以降に大橋をつくらなかったのは、三つの大橋への敬意を表する意味があったのではなかろうか。
明治から戦前に架橋された橋も、厩橋、白鬚橋、勝鬨橋と地名や土地にまつわる故事来歴をとっている。復興橋梁である清洲橋、蔵前橋、駒形橋、言問橋も同様であった。
戦後になると、桜橋を除いて、佃大橋、隅田川大橋、水神大橋、中央大橋と大橋ばやりになる。これらは、永代橋が最高の技術によってスパンした330ftを、軽々とこえているために大橋と称するのであろうか。とすれば、現代の大橋とは、文字通りの大きな橋という意味になる。戦後の大橋から、大の一文字を取ると、とたんに存在感が希薄になる橋があるのはこのためであろう。橋の名は、やはり地に根ざしたものでありたいと思う。
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