江戸名所百景・永代橋佃しま
この絵は、永代橋の下から佃島の方向を望んで、夜の白魚漁のありさまを描いたものである。ここは、江戸湊の外港にあたり、諸国廻船の大型外洋船が舫っている様子も描かれている。
佃島は、攝津国西成郡佃村から幕府が呼び寄せた漁民が、隅田川での独占的な漁業権を与えられ、永代橋下流の干潟を埋立て住んだところである。
白魚は、佃島周辺が最も美味とされ、江戸の頃非常に好まれた魚である。漁は、11月から3月までの寒い期間の夜に行われ、篝火を焚き、四つ手網を使って獲っていた。漁火の風景は江戸の風物詩の一つであった。
佃島の漁民は、白魚を将軍家に献上するのが定めになっていた。
参考図:@東都名所・永代橋深川新地
参考図:A江戸名所図会・永代橋
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永代橋は、今の中央区新川一丁目から江東区佐賀一丁目の間を渡す橋である。創架は、元禄11(1698)年、将軍綱吉の50歳を祝し幕府が架設したものである。橋名は、佐賀町あたりを永代島と呼んだことによる。隅田川で第四番目の橋である。
橋の規模について、「橋長田舎間114間、幅3間4尺5寸、東西袖の間2間ずつ、橋杭30側、内3本建15側、4本建15側、橋高さ上汐湛えに1丈余り(満潮位上3m強)、高欄高さ3尺5寸にて初めて御懸渡しこれあり……」との記録が残されている(文政町方書上による)。このように高い橋を架けたのは、江戸湊の外港に近く大型船の便を図ったからである。
享保4(1719)年、幕府は隅田川4橋の維持に手を焼き、新大橋、永代橋のどちらかを廃止することを詮議し、永代橋を廃止することに決めた。
これを知った江戸町民は驚いて、両岸町民の組合をつくり永代橋の撤去とりやめを嘆願し、橋を維持するための諸経費をすべて町方で負担することを条件に許可された。経費の資金源として、通行人から橋銭2文(武士を除く)を徴収することも許されている。
また、享保14年、幕府は橋梁維持の一助として、橋詰広場にヨシズ張りの床見世(床店 仮設的な店舗)営業を許可した。
こうした、町民の努力にも係わらず、維持管理が行き届かなかったのであろうか、文化4(1807)年8月、深川富岡八幡社の祭礼の日に落橋事故をおこした。
群集の重さに耐えかねて、橋梁中心より深川方へ10間ばかりのところが3間ばかり崩壊した。ところが、群集はこのことを知らずに押寄せ、次々と隅田川に落下し、千人をこえる死者を出す大事故となったものである。町奉行所の警備の与力が抜刀し、押寄せる群集を制止したのはこの時である。事件後、町方の責任者達は、遠島の刑に処せられている。
明治8(1875)年、両国橋とともに、明治政府により新しい西洋式の木橋に改架された。
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