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千 住 大 橋(せんじゅ おおはし)


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江戸名所百景・千住の大はし

  この絵の手前は南千住、対岸が北千住である。川岸には上流の秩父から筏で運んできた木材を扱う材木問屋が並んでいる。遠景の山並みは、日光の山々であろうか。
 芭蕉は、深川からここまで船で遡上し、元禄2年旧暦3月(1689/5)、門弟に見送られて奥の細道への第一歩を踏み出した。「行春や鳥啼魚の目は泪」という句を残している。

◆「千住大橋」関連ホームページの紹介◆
千住物語
/芭蕉と千住/松尾芭蕉/おくのほそ道/
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参考図:江戸名所図会・千住大橋

 千住大橋は、今の荒川区南千住と足立区千住橋戸町の間で隅田川を渡す日光・奥州街道の橋である。

  この橋は、徳川家康の江戸入府後、隅田川に初めて架橋されたものである。創架は文禄3(1594)年、関東郡代伊奈備前守忠次により架けられ、長66間・幅4間との記録がある。
  当初は大橋と呼ばれたが、両国橋が架けられた後は千住大橋、あるいは小塚原橋とも呼ばれた。

  千住宿は、荒川北岸の千住本宿、荒川堤にあった掃部宿、川原宿、橋戸宿と荒川南岸の小塚原宿を総称し、ここから北千住、南千住の呼称が生まれた。日光・奥州街道に加えて水戸街道、佐倉街道の通る交通の要衝として、江戸からの第一宿に制定され繁盛した。

  この橋は、何度か改架されてきたが、創架以来明治18(1885)年7月の洪水まで、一度も流出することがなかった。いわば江戸三百年を生きぬいたことになる。

  架橋位置をみると、架橋時点では利根川の支流の入間川であった。またこの時点は、荒川の瀬替(寛永6(1629)年)以前のことなので、比較的流れの穏かな入間川の本流に架橋したことになる。利根川の本流であった隅田川下流部に先駆けて架橋できたのは、このことが大きな理由と思われる。

  また、江戸期を通して洪水による流出を免れた大きな理由は、上流に近接して橋梁がなかったこと、及び荒川の瀬替以降にあっても、激しい洪水流が緩和される遊水地帯に位置したためと思われる。
  なお、千住付近の荒川堤は、橋詰よりおおよそ1kmほどの位置にあり、文政10(1828)年の記録によると、長さ1449間(2.623km)、高さ1丈2尺(3.6m)、馬踏4間(幅7.3m)、敷16間(29m)とある。

  慶応4(1868)年4月、最後の将軍徳川慶喜は、謹慎蟄居するため、山岡鉄舟らに見送られ、この橋から水戸へと去っていった。千住大橋は、江戸幕府の崩壊と新時代の到来をも見ていたのである。