江戸名所百景・駒形堂吾嬬橋
この絵の左下に見えるのが駒形堂である。お堂の屋根越しに大川橋が描かれている。今は、駒形橋がこの脇に架けられている。
お堂は、かつての奥州街道に面していて、堂内に馬頭観音が安置してあった。江戸の頃、馬の守護神として、また旅の安全を守る神として信仰を集めた。お堂の筋向いに紅屋百助という白粉や紅を扱う小間物屋があって、長い竿の先に赤い布をくくりつけて宣伝していた。
雨で暗い空をホトトギスが飛んでいく。隅田川では、立夏より15日位でホトトギスが鳴きはじめ、それを初音といった。
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吾妻橋は、今の台東区花川戸から墨田区吾妻橋の間を渡す橋である。安永3(1774)年の創架である。江戸時代の隅田川架橋として最後のものとなった。
橋名は、正式には大川橋であるが、墨田区立花一丁目の吾嬬神社への道筋にあたることから吾嬬橋とも呼ばれた。明治9年の改架の際に吾妻橋と命名された。
もともとここには竹町の渡しがあったが、本所方面の開発が進み、また市街地大火など非常時の避難対策上にも架橋が急務となっていた。明和6(1769)年4月、浅草花川戸の町人伊右衛門および下谷竜泉寺の源八の二名から幕府へ架橋願いが提出された。その趣意書によると、橋の利用者から渡賃2文を徴収(武家を除く)して維持費にあて、6年後には冥加金50両を上納するというものであった。
この頃の橋梁水害の事例をみると、上流の橋が洪水で崩れ、橋体の材木が下流の橋に激突してこれを破損するという、連鎖的な災害が典型的なものである。
願いを受けた幕府の詮議では、下流にあたる両国橋、新大橋、永代橋への悪影響を心配するところから根強い反対論があった。特に、日本堤と墨田堤との狭窄部の直近下流、洪水の流出口にあたる架橋位置が問題であった。
結局幕府は、架橋の必要性を認めこれを許可した。着工後5年がかりで長84間・幅3間半・行桁23本、橋脚84本の民間資金による橋梁が完成した。
後年、幕府の不安は現実となり、亨和2(1802)年の流出など、下流の橋にしばしば影響を与えた記録が残されている。
明治9(1876)年12月、明治政府により洋式木橋に改架されたが、明治18年の洪水で流出し、下流3橋に甚大な影響を与えた。このため、隅田川で最初の鉄橋が計画され、明治20年に錬鉄製プラットトラスに改架されている。
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