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両 国 橋(りょうごく ばし)


-新大橋-    -吾妻橋-    -両国橋Photo Gallery- /Map Pageへ/ 江戸時代の隅田川橋梁群Main Pageへ/


江戸名所百景・両国橋大川ばた

 この絵は、手前に両国側の橋詰を描いたものである。川端には、繁盛する水茶屋が見える。対岸は本所で、横網町の川岸には波除の百本杭が打ちこまれていた。その背後は武家地で、幕府の御竹蔵へ入る掘割には御蔵橋が架かっている。茶舟、屋根舟、猪牙舟などでにぎわう隅田川は、江戸の物流の大動脈であることを示している。

 両国橋は、今の中央区日本橋一丁目から墨田区両国一丁目の間を渡す橋である。創架は明暦3(1657)年の江戸大火後、寛文元年(1661)に幕府により架橋されたものであり、隅田川で千住大橋に次ぐ第二番目の橋である。

  両国橋の橋名は当初は俗称で、正式名は大橋であったが、その後新大橋が架橋されて俗称を正式名にしたといわれる。当時の江東方面は、下総国に属していたので、武蔵と下総両国を結ぶ橋という意味であった。

  この橋の左岸地域の深川は、明暦大火から江戸が復興する原動力となった地域である。
  隅田川右岸の日本橋、京橋、神田などの地域は、依然として商工業の中心ではあったが、江戸湊の河岸地としては、火事が多いこと、地価の高いこと、河岸使用の制限が多いことなどの問題をかかえていた。このため寛永期の末ごろから、右岸の問屋はこぞって深川など江東方面に倉庫を設けるようになっていた。

  両国橋の架橋は、こうした傾向を一層うながすこととなった。小名木川や新たに開削された竪川、大横川、横十間川、仙台掘り川など縦横に走る運河の河岸が、右岸の江戸湊の機能を荷うようになったのである。こうして、深川・本所地区は、材木をはじめ、米、塩、酒など生活必需品や多種多様な物資の集積地帯として江戸を支えていくのである。

  明暦大火の惨事から、幕府は、復興計画として市街の主要な場所に火除地を設け、広小路をつくった。両国橋にも橋詰広場をとっている。後年、町奉行所が橋詰広場に見世物小屋や水茶屋など床見世の設置を認めたので、江戸有数の行楽地として江戸町民に親しまれた。また、船遊びや花火などの年中行事で常ににぎわっていた。

  江戸時代における両国橋は、流出2度、焼失5度、その他老朽化などにより十数度改架されてきた。最後の改架は、天保9(1838)年である。明治8年(1875)年12月、明治政府により洋式木橋に改架された。