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新 大 橋(しん おおはし)


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江戸名所百景・大はしあたけの夕立

  この絵は、日本橋側から新大橋の上流側の対岸を望んでいる。にわか雨でかすむ対岸には、幕府の御舟蔵があり、将軍の御座船など大小の船が繋留されていた。広重の頃、御舟蔵の中に、廃船となった御座船安宅(あたけ)丸を追供養する御舟塚があった。これにちなんで、この付近は安宅と呼ばれていた。
  この絵から大きな影響を受けたゴッホは、同じ構図の油絵を描いている。


 新大橋は、今の中央区日本橋浜町から江東区新大橋一丁目を渡すもので、隅田川では第三番目の橋である。創架は、元禄6(1693)年7月に着工、同年末に完成した。橋名は、大橋の両国橋に次ぐところから、新大橋と呼ばれた。

  架橋にさいして、日本橋側の橋詰の水戸藩御用邸を収用、対岸では幕府御用船の繋留場を埋立てている。当時の架橋位置は、現在よりもやや下流側であった。

  一説によると、この橋の架橋は、当時の将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民の不便をあわれみ、善根のために新橋をかけることを将軍にすすめたものといわれている。
  この頃、橋の東詰の芭蕉庵に住んでいた芭蕉は、架設中の様子を「初雪やかけかかりたる橋の上」と詠み、また完成した橋を渡って「ありがたやいただいて踏むはしの霜」と詠んでいる。新しい橋への、江戸市民の喜びようがわかるというものである。

  橋詰には両国橋と同様に広場をとり、高札場を設けた。橋に関するものとして、「この橋において昼夜にかぎらず、往来のやからやすらうふべからず。」「商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引渡るべからず」「火事のとき、橋の上滞りなく諸道具通すべきもの也」「この橋の上より船の内へつぶて一切打つべからず」といった布告がある。

  新大橋は元禄年間に破損修理ニ回、享保年間には焼失、流出その他破損などの架替えや修理13回、寛保年間には同じく7回など、各時代にたびたびの改修を重ねており、幕府はその維持費があまりにかさむため、亨保4(1719)年の廃橋詮議を再び繰返すこととなった(永代橋の項参照)。これを聞いた江戸市民は、廃止反対運動を展開、延亨元年(1744)、橋の維持が町方の組合に移されて廃止をまぬがれた。かわりに、防火水防に関する念入りな義務づけが加えられた。この反面、幕府は橋梁維持の一助として、橋詰広場に床見世(床店 仮設的な店舗)の営業を許し、これが大いににぎわったという。

  明治18(1885)年、明治政府により新しい西洋式木橋に改架された。