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江戸から明治・大正へ
----- 隅田川のトラス群 -----



     ◆耐久的橋梁の建設=プラットトラス群の出現
     ◆様々な形態=デザインの変遷
     ◆関東大地震による壊滅的被災=耐火・耐震橋梁建設の契機となる


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吾妻橋(明治20年改架)



厩橋(明治26年改架)



永代橋(明治30年改架)



両国橋(明治37年改架)



新大橋(明治45年改架)



*1 原口 要
  • 東京帝国大学の前身である大学南校・開成学校で工学を修め、明治8/1882年アメリカに留学。同11年卒業、米国工学士の称号を得た。引続き、鉄道技師として鉄道の新設工事に従事。
  • 明治13年帰国、東京府技師長及び鉄道工部技長に任じられる。
  • 明治15年高橋(錬鉄ウイップルトラス)、明治17年浅草橋(錬鉄ボウストリングトラス)、明治20年吾妻橋(錬鉄プラットトラス)、明治21年鎧橋(錬鉄ウイップルトラス)などを設計。高橋は、邦人技術者の手になる我国最初の道路橋。工部省赤羽製作所で製作。
  • 明治26年鉄道技監に任じられる


*2 原 竜太
  • 開成学校卒業後、直ちに東京府に奉職。
  • 明治24/1891年西河岸橋(錬鉄ボウストリングトラス)、同年御茶ノ水橋(錬鉄プラットトラス)、明治25年和泉橋、明治28年湊橋(錬鉄ボウストリングトラス)、明治31年浅草橋(鋼2ヒンジアーチ)、明治32年新橋(鋼アーチ)、明治34年江戸橋(鋼アーチ)、同年京橋(鋼アーチ)など、明治期を代表する東京の橋を設計。


*3 樺島 正義
  • 明治34/1901東京帝国大学土木工学科を卒業、米国の橋梁設計事務所ワッデル・ヘドリック工務所に留学。
  • 明治39年6月東京市の土木課橋梁掛に奉職。明治41年初代の橋梁課長、大正6/1917年土木課長を歴任し、大正10年依願退職。
  • 大正10年、我国最初の橋梁設計事務所「樺島事務所」を開設。
  • 明治44年日本橋(石造アーチ)、同年水道橋、明治45年新大橋(鋼プラットトラス)、大正2年四谷見附橋(鋼アーチ)、大正3年鍛冶橋(RCアーチ)、同年呉服橋(鋼アーチ)、大正8年高橋(RCアーチ)、同年相生橋(木鉄混合ハウトラス)、大正9年神宮橋(RC桁)、同年新常盤橋(Cアーチ)、同年白鳥橋(RC桁)、大正11年一石橋(RCアーチ)など、「装飾橋梁」とよばれる一群の橋梁を設計。
  • 都市橋梁について、次のように述べている。「私は…都市計画に関しては橋梁型式の配分とでも言はうか。道路網を継ぐ幾多の橋梁が星のように、市街の諸所に散らばって居る。私は之れ等の橋梁相互の美を発揮し、更に一都市として橋梁の上に脈絡ある統制が欲しいと思う」(「橋梁の外観」土木学会誌昭和4/1929年10月)  彼は、橋梁技術者であり都市デザイナ−である、非凡な技術者であった。
  • 日本土木工業協会ホームページ」の建設業界01/08、09月号「土木エンジニアたちの群像−プロフェッショナルの表現」に樺島正義と増田淳(千住大橋のprofile参照)の業績が紹介されている。

  ◆耐久的橋梁の建設=プラットトラス群の出現

  明治18(1885)年の洪水を契機に、東京府は、洪水に耐えうる橋梁の建設に着手します。明治20年、まず吾妻橋を錬鉄ピン・プラットトラス橋で再架しました。理屈からいえば、最初に千住大橋を鉄橋とするのが合理的と思われますが、やはり、江戸以来の懸案である、吾妻橋の架橋位置を問題視したものと思われます。

  吾妻橋以降、明治26年厩橋、明治30年永代橋、明治37年両国橋、明治45年新大橋と、四半世紀をかけて耐久的橋梁の建設を成しとげたのでした。このうち、永代橋は、我国で最初の鋼道路橋でした。鉄橋の使用材料は、明治30年以降、錬鉄から鋼に替わります。

  こうして、隅田川筋には、下表のように橋長150〜180m級の長大なトラスの橋梁群が出現しました。


隅田川プラットトラス諸元表
橋  名 橋  長m 支  間m 幅  員m 鋼  重t 単位鋼重
吾妻橋 148.8 48.8 11.9 - -
厩  橋 156.7 60.8 12.5 309 158
永代橋 182.2 67.4 13.9 410 162
両国橋 164.5 62.0 24.5 - -
新大橋 173.4 63.1 18.6 1,405 436
備考1:支間長は最大支間
備考2:両国橋の支間長は、南高橋からの推定
備考3:単位鋼重は 鋼重kg/(橋長m×幅員m)で算出
出典:「日本の橋」  日本橋梁建設協会編


  なお、千住大橋が鉄橋となるのは、関東大震災後の昭和2年のことです。


  ◆様々な形態=デザインの変遷

  鉄橋群の側面形状は、下図のように変遷しています。


(出典:東京の橋と景観 東京都建設局 昭和62年12月)


  吾妻橋は、48.8mの等支間の支間割から、三つの径間が同じ主構高の平行弦トラスで計画されています。デザイン的には、エンドポストを垂直にした、凛とした橋門が印象的です。架設当時は、大阪市の天神橋(明治21年)、天満橋(同年)と並ぶ長大橋梁として話題を呼び、錦絵などに盛んに描かれました。設計は、原口要(*1)、原竜太(*2)、倉田吉嗣によるものです。

  厩橋は、中央径間の支間は60.8m、側径間はおおよそ45mです。それぞれの支間長に見合う主構高を採用し、工学的に合理的な計画となっています。設計は、吾妻橋架橋に参加した倉田吉嗣です。同じ倉田の設計になる永代橋も、厩橋と同様に中央と側径間とで異なる主構高を採用しています。しかし、中央径間の支間長が67.4mであることから曲弦トラスを採用し、側径間もこれにならっています。これら両橋は、いずれもエンドポストを斜材としたので、上弦材の連続性が橋脚上で断ち切られ、中央と側径間の三つに分節する見慣れた、トラス橋の景観を創っています。

  両国橋は、原の指導のもとに安藤廣行、稲葉愿の設計によるもので、永代橋と工学的にまったく同様の計画です。永代橋との違いは、エンドポストを垂直にすることにより上弦材の連続性を確保したことです。橋梁全体が三つの凸部により、リズミカルに連続する景観を創っています。

  新大橋は、両国橋の計画を一層進めて、上弦材の格点を同一曲線上に置くことによって、水平方向に滑らかに連続する景観を創っています。
  設計は、樺島正義(*3)によるものです。彼は、明治末から大正10年代にかけて、「装飾橋梁」と呼ばれる一群の橋梁を東京に建設しました。新大橋にも、親柱、橋門構、高欄などの各部にすぐれたデザインが見られました。

  以上のトラス橋は、震災復興事業などによりすべて改架されました。幸いなことに、両国橋の中央径間は、亀島川に架かる南高橋として移築され、現役の道路橋として供用されています。
  また、新大橋の橋体の一部が、愛知県の明治村に保存されており、現在の新大橋左岸側の橋詰広場には、親柱や高欄の一部が残されています。新大橋についても、南高橋のような移築保存の方法があったのではと惜しまれてなりません。

  明治30年代中頃になると、市電のネットワークが拡大し、隅田川の両岸を結ぶようになります。一般に市電が河川を渡る場合は、レールを道路橋に敷設します。しかし、既存の橋梁の場合には、その幅員や床組の制約から敷設できない場合もあります。このため、電車橋と呼ばれる市電専用橋を架橋しました。隅田川の例では、吾妻橋と永代橋の位置に近接して、電車橋が架けられました。その構造は、木造の仮設的な橋梁であったようです。

  電車橋は、おそらく吾妻橋や永代橋の景観を大きく損ねたものと思われます。既存施設の歴史性やデザインの軽視など、土木技術者の悪癖を示す初期の事例と思われます。(吾妻橋、永代橋被災状況写真を参照されたい)

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吾妻橋被災状況
前側が電車橋、後側が吾妻橋



厩橋被災状況
中央部は市電軌道部



永代橋被災状況
前側が電車橋、後側が永代橋

  ◆関東大地震による壊滅的被災=耐火・耐震橋梁建設の契機となる

  明治期に隅田川に架けられたトラス橋は、明治初年の石造アーチ橋と同様、洪水や火災に弱い江戸期の木橋の反省から、耐久的橋梁を目指して建設が進められたものです。しかしながら、新大橋を除いて、建設費の制約から床や床組には多量の木材を使用していました。トラス群は、依然として火災に弱い構造的弱点を持っていたことになります。これは、東京の多くの橋梁に共通するものでもありました。

  大正12(1923)年9月1日、首都圏を襲った関東大地震は、この欠陥を赤裸々に暴きたて、甚大な被害をもたらしました。その状況は、「大正十二年関東大地震 震害調査報告」(土木学会  昭和2年12月)(p-40〜42)によると以下のようでした。

 東京市内の橋梁においては、震害の著しいものは稀であり、火害を受けたものが極めて多かった。火災区域あっては、材質を問わず、すべての橋梁が程度の差はあれ火害を受けている。しかし、被害の程度は、木橋と鉄・石材・コンクリートなどの不燃性材料を用いたものとには、顕著な差が認められる。以下に、被害を受けた橋梁を使用材料の耐火性により3種に区別して考察する。
1.耐火橋梁
  • 耐火橋梁は、主要部は鋼鉄、コンクリート、煉瓦などで、木材の使用は木塊舗装程度のものである。附近家屋の火災、橋下の船舶または橋上の家財の燃焼などにより、橋梁の主体に損害を被る恐れはない。東京市においては、新大橋、日本橋、呉服橋、鍛冶橋、京橋、高橋などがこれにあたる。
  • 鉄、鋼橋にあっては、橋上家財や橋下船舶の燃焼による火焔に接した時間が短い場合は、表面塗料の剥離程度の被害であった。しかし、長時間火焔に接した場合は、丸鋼、角鋼、フラット鋼など断面の小さな部材で彎曲変質などが生じ、これら部材を取替える必要があった。

2.半耐火橋梁
3.非耐火橋梁
  • 非耐火橋梁は、橋脚、主桁、橋床ともに全部木造で、橋上、橋下いずれの面からも容易に引火するものである。火災区域内にあったこの種の橋梁は、ほとんど全て焼失した。
  • 吾妻橋および永代橋に隣接する電車橋の例は、以下のようである。その構造は、米松杭の橋脚上に同材桁を架け(ただし、河川中央部の3径間は航行船舶のため鋼鈑桁を架設)、その上に枕木を並べてあった。これら橋脚、主桁、枕木などはすべて焼失、鋼桁は隅田川に転落した。

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