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厩 橋(うまや ばし)
- 橋梁形式 鋼2ヒンジアーチ橋(3連)
- 橋 長 151.4m
- 幅 員 21.8m
- 架設年次 昭和4年9月
- 建設機関 東京市
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 地下鉄浅草線蔵前駅
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厩 橋(明治26年改架)
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厩橋は、台東区駒形二丁目と墨田区厩橋五丁目の間で都道453号「春日通り」を渡す橋である。
創架は、明治7年10月、江戸以来の「御厩の渡し」の位置に、第六番目の橋として架橋された。安政3(1774)年の吾妻橋から数えて、ちょうど100年後のことであった。
明治5年、「御厩の渡し」では、定員オーバーの花見客を運ぶ渡船が転覆、十数人が死亡するという事故が発生した。その後は、よほどの急ぎでない限り、この渡船を利用するひとがいなくなったという。このため、地元の人々が拠金を集め、賃取橋を架橋したものである。
この時期、明治政府は、国事多難なおりから民間資金による架橋を奨励していた。東京では、厩橋の他、神田川の左衛門橋(明治8年)や多摩川の六郷橋(明治7年架橋)、後の白鬚橋(大正3年)などの賃取橋がある。これらの橋は、いずれも維持管理が困難となって、六郷橋は廃橋、左衛門橋と白鬚橋は東京府の買上となった。厩橋もこの例にもれず、明治20年に東京府に寄付された。
明治26年、木橋の耐用年限に達し、錬鉄製プラットトラスに改架された。橋面は、穴だらけであったという。
このトラス橋は、関東大地震の市街地大火の際、附近家屋よりの飛火と橋上家財の燃焼などにより、また橋下船舶の火災などにより、木造の床組がすべて焼失し、鉄製部材も変形などの火害を受けている。
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アーチリングと親柱
歩道部
橋面上のアーチリングと横構
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現橋は、震災復興事業による復興橋梁である。
架橋地点の地盤は非常に良く、蔵前橋と同様に、耐震性、景観性にすぐれた上路式のアーチ橋が妥当な型式であったはずである。下路式としたのは、本橋に近接して幹線街路があり、これとのすり合わせのための高低差の制約が厳しかったためと思われる。
本橋の計画について、次ぎの記録がある。(帝都復興誌 第ニ巻 p-1692
昭和5年5月 復興調査協会編)
「この橋は他橋と少しく趣を異にしてタイドアーチ(注記:橋面上のアーチリング、吊材、横構などを指している)を使用したやや立体的なものである。したがって天井の鋼材もすこぶる少数の気持ちのよい晴々とした橋梁である」と下路橋を肯定的に書きながら、
別項では、「総体に隅田川の他橋に比較して、タイドアーチのあるために、あっさりとした感じは減殺されたうらみがある。あたかも元の吾妻橋(注記:錬鉄トラス橋であった)の上を通るときには上から覆いかぶさっている多数の組み合せた鋼材のために鈍重の感をもよおすのと変わりはないのである。言問とか蔵前のごとき平面橋から受ける明るい感じは少ない様であるが頑丈にできあがっている」と否定的であり、こちらが本音のようである。
復興橋梁は上路橋を原則としており、またこの記録のような批判のある下路橋をあえて選定する理由もないので、全長にわたって上路型式にすることは無論、駒形橋のように側径間を上路型式にすることも困難であったことがわかる。
本橋の径間割からは、トラス型式が最も経済的であった。しかし、アーチ型式としたのは、トラス型式を避けた復興局の方針と、蔵前橋から吾妻橋の間の4橋をすべてアーチ型式で統一するとの復興局の方針によるものと思われる。(この項、「吾妻橋のProfile」参照)
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