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白 鬚 橋(しらひげ ばし)
- 橋梁形式 主径間:バランスド鋼タイドアーチ橋
側径間:単純鋼トラス橋
- 橋 長 167.6m
- 幅 員 24.1m
- 架設年次 昭和6年6月
- 建設機関 東京府
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 JR常磐線/日比谷線南千住駅
東武伊勢崎線東向島駅
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木橋時代の白鬚橋(文献-208)
ブレースト・アーチリブ、吊材、横構
歩道部
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白鬚橋は、台東区橋場二丁目と墨田区堤通り一丁目の間で都道306号「明治通り」を渡す橋である。橋名は、墨田区寺島町の鎮守である白鬚神社によっている。
本橋の上流に中世の頃から渡しがあり、江戸の頃には「橋場の渡し」と呼ばれた。
橋場の地名は、治承4(1180)年、源頼朝が上総から武蔵入国のおり、浮橋(船橋)をつくらせた故事によるほか諸説がある。頼朝の船橋は、隅田川の歴史に現れた最初の橋といわれている。
橋場は交通の要衝にあり、鎌倉と上総を結ぶ道や奥州街道がここを渡っていた。在原業平は、ここを渡ったとされている。しかし、上総への道筋が南の吾妻橋あたりに移り、また奥州街道が千住に移ると、やがて江戸近郊の農村地帯となる。渡しも、農民や農産品の輸送が主となり、「百姓渡し」と呼ばれた。左岸には、梅若伝説のように、かつての古道ならではの物語が残されている。
本橋の創架は新しく、大正3(1913)年5月である。土地の人々が基金を集めて、資本金10万円の「白鬚橋株式会社」を設立、橋長130間、幅24尺の木橋を架橋した。大人一人1銭の渡銭をとる賃取橋であった。 この橋も、同時期の他の賃取橋と同様に維持管理に苦慮した。後に、渡銭を2銭に値上げしたが、老朽化して危険になったため、大正14年東京府に買取られた。
現橋は、復興事業と連携して事業が進めれれた都市計画事業の一環として、昭和6年、東京府により架橋されたものである。
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親 柱
帝都北門の風格
- (*1)ブレーストリブ・タイドアーチ橋小史
- ・品川の東海道線に架かる
八ツ山橋(大正3年 41.4m)が嚆矢
- ・大正後期から昭和初期にかけて
次々と架けられた
- ( )内は、架橋年、最大支間長
- ・札幌市:豊平橋(大正13年 39.0m)
- ・東京都:六郷橋(大正14年 66.0m)
- ・東京都:千住大橋(昭和2年 89.8m)
- ・熊本市:長六橋(昭和2年 73.0m)
- ・東京都:白鬚橋(昭和6年 79.6m)
- ・旭川市:旭 橋(昭和7年 90.9m)
白鬚橋と同形式である
- ・東京都:松住町跨道橋
(昭和7年 72.0m) 秋葉原のJR総武線高架橋
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本橋は軟弱地盤にあり、橋脚はケーソン基礎、橋台は杭基礎となっている。上部構造は、外的静定構造系のバランスドタイドアーチ橋である。アーチリブは、トラス組のブレーストリブでこの点が永代橋と異なる。外観の印象は、永代橋の動的な力強さに比較して、静的で落着いた風格がある。
設計者は、千住大橋や六郷橋等を手がけた増田 淳、東京府の担当技術者は、技師・岩男 新である。(「千住大橋のProfile」参照)
ブレーストリブ・タイドアーチ型式(*1)の特徴は、トラス橋と同様、軽量の部材により構成されいるため、大スパンを比較的容易に架設できるという点にある。このメリットよりも長持ちする方がよいとの理由から、あえてソリッドリブとした永代橋の鋼重は、965kg/uと白鬚橋518kg/uのほぼ2倍となっている。復興局の永代橋への力の入れようがわかる。
都市構造とランドマーク配置の観点から、東京市周辺に架橋されたブレーストリブ・タイドアーチについて、次のような見方がある。(参考文献207:「隅田川の歴史」p-108)
勝鬨橋と永代橋を川から帝都への南門とすれば、千住大橋と白鬚橋は、川から帝都への北門と見ることができる。また、六郷橋と八ツ山橋を陸路(東海道)から帝都への南門とすれば、千住大橋は陸路(奥州・日光街道)から帝都への北門であり、白鬚橋も架橋当時は市郡部の境界に架橋されたので、陸路から帝都への北門と見ることができる。
橋脚と橋台を踏みしめる堂々たる本橋の姿は、陸路、水路のいずれにしろ、帝都の北門にふさわしい。
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