ver.001123
佃 大 橋(つくだ おおはし)
- 橋梁形式 3径間連続鋼床版箱桁橋
- 橋 長 220.0m
- 幅 員 25.0m
- 架設年次 昭和39年8月
- 建設機関 東京都
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 地下鉄有楽町線新富町/月島駅
日比谷線築地駅
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「佃の渡し」渡船場の風景
曳舟や住吉神社の鳥居が見える
佃大橋の取付部(左岸側)
手前から後方へ、高い位置で隅田川を渡って行く。横断面構成は、左から側道、オンランプ、本線高架橋。側道の奥、ランプに接して歩行者用の階段がある。
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中央区明石町と月島1丁目との間で都道473号を渡す橋である。創架は、昭和39年8月である。橋名は、200mほど上流にあった「佃の渡し」によっている。大橋としたのは、左岸佃川に佃橋、佃小橋があるためである。
「佃の渡し」は、対岸の江戸市中と結ぶために、佃島の漁民が設けたのが始まりといわれ、正保2(1645)年頃からの長い歴史を持っていた。明治の頃、一人5厘の渡し賃をとったので「五厘の渡し」とも呼ばれた。大正15年に東京市営の手漕ぎの無料渡しとなり、昭和2年からやはり無料の汽船曳船が運行された。佃大橋の完成により昭和39年8月27日に廃止、隅田川の渡しでは最後のものとなった。
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都道473号は、勝鬨橋と永代橋との間、隅田川下流断面の交通混雑を緩和するために計画され、都心部と月島・晴海地区さらには江東方面を結ぶ幹線道路である。道路計画は、隅田川を渡るばかりでなく、右岸の明石町側では「築地川公園通り」(旧都道512号)、左岸の月島側は「清澄通り」と立体交差するものであった。佃大橋は、連続高架橋なのである。
上部構造形式は、3径間連続鋼床版箱桁形式であり、同形式としては我国屈指の規模を誇る橋梁であった。当時著しい地盤沈下が進行していた下町地域にあって、外的不静定構造物を採用したこと、斬新な鋼床版形式の採用や大ブロック一括架設工法を採用するなど、高い技術水準を示した。
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歩道部
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昭和30年代の終わり頃から40年代初頭は、高度経済成長に支えられて,
公共事業量が飛躍的に拡大しようとした時期である。道路や橋など、脆弱であった社会基盤施設を急速に整備するため、個々の施設建設の経済性が厳しく問われた。橋についても、例えばデザインの対象であった親柱の必要性が否定的に見られ、橋燈も一般道路と同様なテーパーポール燈柱にするのが普通であった。こうして、「渡る」に必要な最低限度の機能に特化した画一的な橋梁が建設され、復興橋梁建設に係わった技術者達の橋づくりへの哲学が失われていった。
佃大橋は、この時代を色濃く映し出している。本橋には親柱がない。連続高架橋であるため、歩行者は約7mほどを階段で上り下りして、橋を渡らねばならない。(後にスロープが取付けられた)
高架橋のようなT型橋脚、歩道部では簡素なアルミ高欄やハイウエイ型の照明柱、当初のアスファルト舗装など、ディティールに乏しい橋梁である。
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