ver.050403
言 問 橋(こととい ばし)
- 橋梁形式 3径間鋼ゲルバー鈑桁(函型)橋
- 橋 長 238.7m
- 幅 員 22.0m
- 架設年次 昭和3年2月
- 建設機関 復興局
- 管理機関 国土交通省
- 最 寄 駅 東武伊勢崎線浅草駅
地下鉄銀座線浅草駅
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主桁、横構の配置状況
歩道部
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言問橋は、台東区花川戸二丁目と墨田区向島二丁目の間で国道6号「水戸街道」を渡す橋である。創架は昭和3年、復興事業による復興橋梁である。
橋名は、在原業平との関連で連想されることが多いが、架橋地点には言問の地名も、渡しもない。言問とは、上流の隅田川神社(明治の頃まで水神社と呼ばれた)あたりを指す地名であったらしい。
本橋の上流に「竹屋の渡し」があり向島三囲神社と浅草待乳山聖天とを結んでいた。また、下流には源森川河口から浅草観音へ向かう「山の宿の渡し」(別名、「枕橋の渡し」)があった。この二つの渡しを総称して「言問の渡し」と呼んだ、とされているが確かではない。言問いの名を、言問橋に奪われたと憤慨する声が、隅田川神社あたりにあるようだ。
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本橋の両岸は、20万uに及ぶ都内最大のリバーサイドパーク、隅田公園が広がっている。
広々と広がる川面と緑の空間に架かる橋である。
隅田公園は、復興事業の目玉の一つであった。復興局は、復興三大公園といわれる大きな公園を、錦糸町、浜町、ここ隅田川につくった。なかでも力を入れたのが、隅田公園である。川辺を逍遥できる公園として、特に「臨川公園」と呼ばれた。
復興局は、こうした環境との調和を考えて、本橋の計画にあたったが、下流に架橋予定の東武鉄道の隅田川橋梁に対しても、公園の眺望を阻害しないこと、周囲の風致に配慮すること、などの注文をつけている。
美しい環境にある言問橋だが、悲惨な記録が残されている。
今次大戦の東京大空襲のとき、橋上は、爆撃による大火に追われた避難者であふれ、持込まれた家財で身動きできない状態であった。関東大震災の教訓は生かされることなく、やがて橋上は火の海と化し、千人に及ぶ犠牲者で埋め尽くされたという。この痕跡は、黒くすすけて角のはじけた、親柱に残されている。
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隅田公園(左岸向島側)の桜
- (*1)帝都復興事業誌 土木編上
- 帝都復興事務局 昭和6年3月 p-345
- (*2)前掲書 p-346
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本橋の型式は、橋上からの眺めがよく、また河岸の公園の眺めを阻害しない上路型式が検討されていた。当初は、最も無難に調和するとの考えから、蔵前橋と同形式のアーチ橋が考えられた。しかし、架橋地点が軟弱地盤であるところから、外的静定構造系の3径間ゲルバー鋼鈑桁型式が選定された。径間割からは、トラス桁型式が最も妥当な型式であるが、鈑桁として我国の最大スパンに挑戦した。復興局は、このことを「前例に乏しく、やや大胆な感があるが」(*1)と記録している。
また、公園区域は地盤高が低いので、それぞれ3径間連続鋼鈑桁によりオーバーパスし、両岸の街路に接続させている。
本橋について、復興局は、次のように記録している。(*2)
「大正14年秋、かねてより懸賞募集中であったドイツマンハイム市のネッカア河上に新設せらるる全長196mフリイドリッヒエバアト橋の競争設計発表せられ、その審査の結果言問橋と近似せる突桁式鈑桁の設計が第一等を獲得し、永代橋と同様なる繋拱の設計が第二等に当選せることである。
のみならず大正15年に起工せられたるベルリン市レアタア停車場附近フンボルト・エアフェンの街路橋は概ね隅田川橋梁に同じく、その形式は、清洲橋と同一であって、期せずして橋梁設計の傾向が、彼我その理想をつくせるものの一致を見たることは、設計関係者にとって実に興味ある事実を提供したものである。」
これは、我国の橋梁技術の水準が、明治以来のアメリカ流のトラスを卒業し、ゲルバー鈑桁、タイドアーチ、ラーメンなどドイツ流の新しい橋梁型式によって、欧米に肩を並べたことを示している。そして、我国の橋梁技術が世界的水準に達したとの、復興局橋梁技術陣による、誇らかな宣言でもある。
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