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ver.020217
神田川の橋梁群CONTENT ●神田川のこと ●橋梁群のこと ●橋梁群の現状 |
江戸名所百景・水道橋駿河台 |
●神田川のこと神田川は、東京都武蔵野市の井之頭池を水源とし、途中、善福寺川や妙正寺川など神田川水系の河川を合わせ、台東区柳橋一丁目と中央区東日本橋二丁目の間で隅田川に合流する延長約26キロメートルの河川です。 ◆神田川=生活関連物資の物流を荷う 神田川は、江戸の頃、日本橋川と同様に江戸湊を構成する主要な河川でした。沿岸には、多くの河岸がありましたが、その特徴は、舂米屋(しょうまいや)と青物市場の存在です。 ◆神田川=水運の便と水害と 神田川と下町の多くの川(運河)との違いは、神田川が武蔵野台地の降雨や湧水を集めて東京湾へ排水する生きた川であることです。 ◆神田川景観軸の再生=神田川を町並みの表へ 神田川は、江戸から東京へと何時もにぎわいの中を流れつづけてきました。今も、浅草橋界隈の衣料雑貨問屋街、美倉橋から万世橋界隈の秋葉原電気街、聖橋から御茶ノ水橋界隈の学生街、水道橋から後楽橋界隈の行楽街など、東京で有数の盛場を結んで流れています。 |
橋梁群List橋 名 橋梁形式 架設年次
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●橋梁群のこと ◆橋梁群=アーチの王国 神田川には、現在、震災復興事業により架けられた橋を中心に13橋が供用されています。これらの橋のうち10橋がアーチ形式です。神田川橋梁群は、アーチ群による類例のない景観を創っています。 ◆江戸から明治・大正へ=木橋から鉄とコンクリートの橋へ 神田川には、古くから多くの橋が架けられてきました。(明治20年)、錬鉄製プラットトラス形式の御茶ノ水橋(明治23年)、錬鉄製スパンドレルブレーストアーチ橋の和泉橋(明治25年)があります。 これらの鉄橋のうち、浅草橋は当時の東京府技師長・原口要の設計によるものです。また、御茶ノ水橋は、原口要の部下の東京府技師・原竜太の設計による上路形式のトラス橋でした。都心地域では、この橋以降、上路形式の例はないのですが、御茶ノ水の渓谷という地形が可能にしたのでしょう。 明治30年代に入ると、鋼橋が架けられるようになります。鋼2ヒンジアーチ橋の浅草橋(明治31年)と万世橋(明治36年)があります。浅草橋は、原竜太の設計によるもので、この形式では我国最初のものです。また、鋼プラットトラス形式の左衛門橋(明治34年)があります。 鉄筋コンクリート橋では、関東大地震直前の大正12年(1923年)、アーチ橋の昌平橋が架けられました。 こうして、関東大震災直前の川筋の橋梁群は、鉄と鋼のトラス橋とアーチ橋、鉄筋コンクリートアーチ橋、木橋が混在した状況でした。 ◆様々なアーチ橋=復興橋梁の一貫したデザイン意図 大正12年の関東大地震により、川筋では御茶ノ水橋が焼失する被害を受けました。こうした地震の被害を踏まえて、川筋全ての橋梁は、震災復興事業により耐震性・耐火性のある鋼橋や鉄筋コンクリート橋に架替られました。 |
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●橋梁群の現状橋梁群は、架設以来70年を越えようとするものが大部分を占めています。すでに1橋の架替えがなされ、今後、徐々に架替が進められて行くものと思われます。 ◆景観保存と再生=望まれる橋梁管理者の連携 橋梁群は、復興局と東京市との連携のもと、一定の川筋を一定の橋梁形式で統一するとの強いデザイン意図によって計画されたこと、また聖橋や万世橋のようにデザイン密度の高い橋が含まれていることなどから貴重な存在です。幸いにして架設当初の状態が比較的良く保存されている現状を維持するとともに、この橋梁群を創造したデザイン意図を受継ぎ再生して行きたいものです。残念なことに、昭和63年に架替えられた水道橋では、こうした配慮はまったくなされませんでした。 ◆不適正使用の是正=望まれる管理水準の向上 高欄や親柱、橋灯など橋梁付属物の維持管理状況や橋詰広場の保存・活用状況を見ると、聖橋や万世橋など数橋を除き、決して十分と言い難い状況になっています。 |