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神田川の橋梁群

             
                               CONTENT

                             神田川のこと
                             橋梁群のこと
                             橋梁群の現状
                          




     江戸名所百景・水道橋駿河台
  文京区湯島1丁目あたりの崖  上からの眺めとされる。      画面中央に大きな鯉のぼりを  描く大胆な構図。神田川に架か  るのは水道橋。         富士を背景に広がる町並みは  駿河台、小川町のあたり。  
神田川のこと


  神田川は、東京都武蔵野市の井之頭池を水源とし、途中、善福寺川や妙正寺川など神田川水系の河川を合わせ、台東区柳橋一丁目と中央区東日本橋二丁目の間で隅田川に合流する延長約26キロメートルの河川です。
  このホームページでは、日本橋川が分岐する小石川橋から隅田川河口までの約3.5キロメートルを記録しています。

◆神田川=生活関連物資の物流を荷う

  神田川は、江戸の頃、日本橋川と同様に江戸湊を構成する主要な河川でした。沿岸には、多くの河岸がありましたが、その特徴は、舂米屋(しょうまいや)と青物市場の存在です。

  舂米屋は、玄米を売買する米問屋と違って、玄米を精米して江戸町民に販売する米商人です。こうした米商人や米問屋が筋違橋(現在の万世橋)から美倉橋の下流にかけて軒を連ねていました。
  神田多町には、青物市場が置かれていました。筋違橋に集まる八方からの道路、神田川と南側の日本橋川をひかえた位置は、鮮度を第一とする青物市場にとって最適な場所でした。神田川の河岸からは葛西・砂村方面の、日本橋川の河岸からは房州方面の、陸路や水路を利用して江戸近郊の練馬・三河島からの新鮮な野菜が集荷されたのでした。

  神田川筋は、手工業の非常に盛んな地域でもありました。資材や製品の搬出入には、水運の便が生かされたのです。簪、江戸小紋、江戸切子などの高級品から、ありとあらゆる日用雑貨を生産していました。神田川筋は、職人の町であり、宵越しの銭は持たないと自慢する真性「江戸っ子」の故郷なのです。

◆神田川=水運の便と水害と

  神田川と下町の多くの川(運河)との違いは、神田川が武蔵野台地の降雨や湧水を集めて東京湾へ排水する生きた川であることです。

 台地部に長雨が降れば、下流部に洪水の被害をもたらしました。特に、元和6年(1620年)の付替え以降、下流部は激しい洪水の被害を受け続けるようになります。
  関口から下流の全ての橋梁が、鉄砲水で一気に流されるといった被害や、小石川橋の左岸にあった水戸藩邸西側の長屋では、ニ階の窓から水が流れ込むほどの洪水に頻繁にあっています。

  神田川は、水運の便と同時に水害をもたらす、恐れるべき存在であったのです。(この項、「神田川と神田上水の歴史」参照)

◆神田川景観軸の再生=神田川を町並みの表へ

  神田川は、江戸から東京へと何時もにぎわいの中を流れつづけてきました。今も、浅草橋界隈の衣料雑貨問屋街、美倉橋から万世橋界隈の秋葉原電気街、聖橋から御茶ノ水橋界隈の学生街、水道橋から後楽橋界隈の行楽街など、東京で有数の盛場を結んで流れています。

  しかしながら、こうした界隈の町並みは、川面に背を向けて出来あがっています。この意味で、神田川も、日本橋川と同様、東京都心の間隙を流れる川になっているのです。

  まちづくりに係わるすべての機関は、川とまちとの絆を再び取戻すために、神田川を中心とする景観軸の再生に取組んでほしいものです。

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橋梁群List

    橋  名  橋梁形式   架設年次
  1. 柳  橋 Sアーチ橋  昭和 2年◇
  2. 浅 草 橋 Sアーチ橋  昭和 3年◇
  3. 左衛門橋 Sアーチ橋  昭和 5年◇
  4. 美 倉 橋 Sアーチ橋  昭和 4年◇
  5. 和 泉 橋 Sアーチ橋  昭和 5年◇
  6. 神田ふれあい橋
         S単純鈑桁橋 平成 1年
  7. 万 世 橋 Rアーチ橋  昭和 5年◇
  8. 昌 平 橋 Rアーチ橋  昭和 5年◇
  9. 聖  橋 Rアーチ橋  昭和 2年◇
  10. 御茶ノ水橋
         Sラーメン橋 昭和 6年◇
  11. 水 道 橋 S単純箱桁橋 昭和63年▲
  12. 後 楽 橋 Sアーチ橋  昭和 2年◇
  13. 小石川橋 S下路鈑桁橋 昭和 2年◇
  •   S:鋼
  •   R:鉄筋コンクリート
  •   ◇:復興橋梁
  •   ▲:復興橋梁を架替
  • 神田ふれあい橋:歩行者専用橋
橋梁群のこと


◆橋梁群=アーチの王国

  神田川には、現在、震災復興事業により架けられた橋を中心に13橋が供用されています。これらの橋のうち10橋がアーチ形式です。神田川橋梁群は、アーチ群による類例のない景観を創っています。

◆江戸から明治・大正へ=木橋から鉄とコンクリートの橋へ

  神田川には、古くから多くの橋が架けられてきました。

  江戸の頃には木橋が架けられました。市街地大火による焼失のほか、洪水による破損や流出の記録が多く残されています。絶え間ない橋の補修や架替が必要でした。

  明治になると、橋の耐久化が図られました。まず肥後の石工により、
万世橋(明治6年・1873年)と浅草橋(明治7年)とに石造アーチ橋が架けられました。
  10年代に入ると鉄橋が架けられるようになりました。錬鉄製ボーストリングトラス形式の浅草橋(明治16年)、錬鉄製ダブルワーレントラス形式の柳橋(明治20年)、錬鉄製プラットトラス形式の御茶ノ水橋(明治23年)、錬鉄製スパンドレルブレーストアーチ橋の和泉橋(明治25年)があります。

  これらの鉄橋のうち、浅草橋は当時の東京府技師長・原口要の設計によるものです。また、御茶ノ水橋は、原口要の部下の東京府技師・原竜太の設計による上路形式のトラス橋でした。都心地域では、この橋以降、上路形式の例はないのですが、御茶ノ水の渓谷という地形が可能にしたのでしょう。

  明治30年代に入ると、鋼橋が架けられるようになります。鋼2ヒンジアーチ橋の浅草橋(明治31年)と万世橋(明治36年)があります。浅草橋は、原竜太の設計によるもので、この形式では我国最初のものです。また、鋼プラットトラス形式の左衛門橋(明治34年)があります。

  鉄筋コンクリート橋では、関東大地震直前の大正12年(1923年)、アーチ橋の昌平橋が架けられました。

  こうして、関東大震災直前の川筋の橋梁群は、鉄と鋼のトラス橋とアーチ橋、鉄筋コンクリートアーチ橋、木橋が混在した状況でした。

◆様々なアーチ橋=復興橋梁の一貫したデザイン意図

  大正12年の関東大地震により、川筋では御茶ノ水橋が焼失する被害を受けました。こうした地震の被害を踏まえて、川筋全ての橋梁は、震災復興事業により耐震性・耐火性のある鋼橋や鉄筋コンクリート橋に架替られました。

  震災復興事業の目玉となった鉄骨コンクリートアーチ橋の聖橋があります。鋼2−ヒンジアーチの浅草橋美倉橋、鉄筋コンクリートアーチの万世橋昌平橋、また下路式鋼タイドアーチの柳橋など、さまざまな形式のアーチ橋があります。

  神田川筋に多くのアーチ橋が形式選定されたのは、川筋の地形や地質、また川幅など架橋条件へのアーチ形式の適合性が優れていたからです。
  他方、万世橋から上流の川幅(御茶ノ水切通し区間をのぞく)は、鋼鈑桁形式の適用範囲であったにもかかわらずアーチ橋の形式選定がなされています。これは、川筋の景観をアーチ橋で統一したい、との強い意思が復興橋梁に係わった技術者達にあったものと考えられます。(この項、「神田川橋梁群の形式選定」参照)

 今日、神田川の橋梁群は、橋台を踏みしめるアーチリングの安定感とその優雅な曲線とによて、界隈のにぎわいの中に、ほっとする憩いの眺めを創り出しています。また、橋からの川筋や川面の眺め、隣接する橋の眺めなど、閉鎖的な都市空間の中に貴重な視点場を提供しています。

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橋梁群の現状


  橋梁群は、架設以来70年を越えようとするものが大部分を占めています。すでに1橋の架替えがなされ、今後、徐々に架替が進められて行くものと思われます。

◆景観保存と再生=望まれる橋梁管理者の連携

  橋梁群は、復興局と東京市との連携のもと、一定の川筋を一定の橋梁形式で統一するとの強いデザイン意図によって計画されたこと、また聖橋や万世橋のようにデザイン密度の高い橋が含まれていることなどから貴重な存在です。幸いにして架設当初の状態が比較的良く保存されている現状を維持するとともに、この橋梁群を創造したデザイン意図を受継ぎ再生して行きたいものです。残念なことに、昭和63年に架替えられた水道橋では、こうした配慮はまったくなされませんでした。

  橋梁管理者である国、都、区は、橋梁群の景観保存と再生について、早急に協同研究へ着手する必要があります。すべての管理者は、共通の管理方針のもとに維持・管理業務に当たってほしいものです。橋梁群の景観保存と再生のためには、各管理者の連携が必要不可欠です。

◆不適正使用の是正=望まれる管理水準の向上

  高欄や親柱、橋灯など橋梁付属物の維持管理状況や橋詰広場の保存・活用状況を見ると、聖橋や万世橋など数橋を除き、決して十分と言い難い状況になっています。

  維持管理には、財政的裏付けが必須の要件です。しかし、橋梁敷地の不適正使用の是正や橋梁の現況調査のためには、日常的パトロールなど人的対応が求められる分野も多々あります。厳しい財政状況との決り文句に甘えることなく、維持管理水準のレベルアップに取組んでほしいものです。

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