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神田川と神田上水の歴史




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     江戸名所百景・昌平橋聖堂神田川
 強雨の神田川。手前に昌平橋  が描かれている。駿河台の深い  切り通しに船が入っていく。  対岸の急坂は昌平坂。湯島聖 堂の外壁と樹林が見える。坂下  には昌平河岸がある。      やがて、洪水がくるのであろ  うか。           





  小石川橋から見る日本橋川と
 神田川との分岐点。     
  左手が神田川方向で後楽橋が
 見える。右手が日本橋川方向で
 三崎橋が見える。            

◆神田川について

  このホームページで記録する神田川下流部は、江戸初頭の頃、ほぼ現在の日本橋川の位置を流れていました。第2代秀忠の元和6年(1620年)、幕府は仙台藩に下命し、南行している流れを小石川橋付近でほぼ直角の東向きに変更し、隅田川に落とす工事に着手しました。
  流路変更の理由は、日本橋など江戸中心部への水害を防止すること、湿潤な氾濫源となっていた三崎町付近を宅地化することの2点といわれています。宅地化の必要性は、家康の死去に伴う駿河衆の江戸移住対策です。工事の最大の難所は、本郷台地の先端を現在みるように、御茶ノ水を中心に掘割ったことでした。

  神田川の付替え概念図
(「幻の東京百年」鈴木 理生(筑摩書房)より修正して掲載)




  流路変更の結果、江戸城北部の外郭線が確定し、同時に神田山(本郷台地の先端部)は駿河衆の移住の地として駿河台となり、三崎町、小川町、一つ橋付近の宅地化が図られ、下流部の洪水がなくなりました。
  しかし、この反面、小石川橋上流部から神田川河口までは、以降、悲惨な洪水被害を受け続けるという結果も生じています。関口から下流の全ての橋が、鉄砲水で一気に押し流されるという記録が数多く残されています。その原因は、三崎町周辺の氾濫原の宅地化により、神田川下流部の保水・遊水機能を失ったことでした。また、御茶ノ水の切通しの部分では、長雨で緩んだ関東ローム層の急斜面が崩壊し、ダムのように神田川を堰きとめた後、鉄砲水となって川筋を襲うという事例も多々あったようです。幕府は、神田川の右岸(城郭内側)の昌平橋から浅草橋間に「柳原の土手」をつくり城を守る措置をしましたが、その分左岸側は悲惨な洪水を受ける結果となったのでした。

  なお、流路の変更後、三崎橋から堀留橋までの間の神田川は埋立られています。堀留橋は、文字通り堀(外濠)の終端に位置していたのです。しかし、明治36年(1903年)、再び開削され現在の形になっています。

  続いて、和泉橋から御茶ノ水の切り通し、さらには牛込御門付近までの通船を可能にする拡幅工事が仙台藩に下命されました。これが、原田甲斐の登場する「樅の木は残った」に描かれている工事です。第4代家綱の万治4年(1660年)に拡幅工事は完成し、実に40年の歳月をかけて神田川の建設が完成したのでした。


     江戸名所図会「神田浄水懸樋」
御茶ノ水の切通しを渡る懸樋  後方に水道橋が見える   

◆神田上水について

  神田上水は神田川を水源とする上水であり、我国最初の水道とされています。文京区関口町付近に堰を設けて取水し、石樋や木樋などの地中配管により小石川など神田川の北側を通り、御茶ノ水の懸樋で神田川を横断し、神田、日本橋、京橋、大手町など江戸城の東側地域に給水していました。

  工事は、家康の江戸入府直後の天正18年(1590年)に始まり、完成したのは第3代家光の寛永6年(1629年)とされています。以来、明治23年(1890年)に衛生上の理由で閉鎖されるまで、おおよそ300年にわたって江戸町民に飲料水を供給したのでした。

  なお、江戸の上水として、神田上水のほか、玉川上水、千川上水、三田上水、亀有上水、青山上水が建設されました。玉川上水は最大規模のもので、第4代家綱の承応3年(1654年)に建設され、四谷、麹町、日比谷、虎ノ門、銀座、新橋、築地、八丁堀など江戸城の西から南側の地域に給水していました。その他の上水は神田、玉川両上水の給水地域の外周部に給水していました。