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江戸幕府の橋梁管理




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◆橋梁の管理区分=御入用橋・組合橋・一手持橋

  江戸市中の橋梁は、江戸時代中頃の宝暦5(1751)年の記録によると、おおよそ270橋となっています。これらは、次のように区分して管理されていました。

  郭門橋と市街地の主用な橋梁は、幕府が管理し、官費で架橋、改架、修繕を行い、御入用橋とよばれました。

 他に、武家や寺社や町方が、それぞれ組合をつくって維持管理する組合橋、及び武家や裕福な町人が個人でつくって維持した一手持橋がありました。
 組合橋や一手持橋の架橋や改架には、無論、町奉行所への届出、許可が必要でしたが、修繕についても無届はご法度でした。明和9(1772)年、深川扇町の家主惣兵ヱは、無断で一手持橋を修理して金5両の罰金刑を受けています。


江戸時代の隅田川橋梁関連年表
文禄  3(1594)年:千住大橋架橋
寛文 元(1661)年:両国橋架橋
元禄  6(1693)年:新大橋架橋
元禄 11(1698)年:永代橋架橋
享保  4(1719)年:永代橋町方へ
延亨 元(1744)年:新大橋町方へ
安永  3(1774)年:吾妻橋架橋
文化  4(1807)年:永代橋落橋事件




参考:一両の概略時価換算率

日銀貨幣博物館によれば、江戸時代中頃(元文小判)の一両について

 米価で約4万円
  賃金で30〜40万円
 そば代金で12から13万円

としている。
なお、米価基準の換算率は、江戸の各期で差があり、江戸初期で10万円、中期から後期で3〜5万円、幕末で3〜4千円としている。

ちなみに、徳川家は400万石。これを江戸時代中頃の米価基準で価換算すると約1,600億円となる。現在の国家予算は約80兆円、財政規模の巨大さがわかる。

平成11年度政府買入価格
 1kg=約270円
米1俵(60kg)≒16,000円
1石=米2.5俵≒40,000円

◆御入用橋の管理=財源確保に苦慮する

  御入用橋は、江戸の最盛期において160〜170橋ほどありました。これらの橋梁は、町奉行所の掛かりとなっており、その改架や修繕にさいしては、その都度入札を行い請負人を決めていました。

  享保19(1734)年、幕府は、町人の白木屋勘七、菱木屋加兵の両名の願いを採用し、定請負制度を発足させました。これは、両国橋と新大橋を除く(このとき、永代橋はすでに町方の管理となっている)市中の御入用橋全部の改架、修繕費を年間800両として町方に請負せる制度です。ただし火災のために橋が焼け落ちた場合に限り、別途に材木の購入費を幕府が出す条件でした。請負額は、2年後の元文元年(1736)、物価の高騰を斟酌して1,000両に増額しています。この後、御入用橋は俗に千両橋と呼ばれるようになりました。

  定請負制度では、状況により、請負額ではまかない切れない年も生じてきます。例えば、日本橋と江戸橋のような目抜き通りの橋を改架する場合には、それぞれ500両として、2橋のみで1年分の予算が費やされてしまいます。こうした制度上の不備を補うため、幕府は一時金を請負人に貸付け、請負人は毎年の請負額1,000両のうちから年賦返納する方法がとられました。

  第10代家治の明和5(1768)年から7年は、全国的な飢饉が続きました。幕府は救済と治安維持に腐心し、同8年4月に倹約令を布告しました。橋普請の予算も、一挙に500両へと半減しました。請負人は、この事態に応じて、改架では橋長や幅員をできるだけ減らす、使用材料の材質を落とす、構造を簡便にするなどで対応しました。この結果、安全度の低い橋が出現し、その後の管理費がかさむ原因を生み出しました。このため幕府は、6年後の安永6(1777)年、請負金を950両にひきあげています。

 一般に木橋の耐用年数は、約20年といわれています。江戸時代の木橋は、老朽化による架替えや修繕に加えて、たえまのない大火や風水害への対応も必要でした。幕府は、江戸時代を通じて橋梁管理費の削減と確保に腐心しつづけたのでした。財政事情の逼迫していた第8代吉宗の頃には、永代橋と新大橋の廃橋問題が論議されています。両橋は、存続要望が実のって、町方へ移管することで決着しましたが、そ結果として永代橋の落橋事件が起きたのでした。



◆三橋会所設立と廃止=一時に終わった町方資金導入

  永代橋の落橋事件翌年の文化5(1808)年、幕府は4,300両の巨費を投じて、永代橋を改架しました。

  この出来事を見透かすかのように、文化6年2月、菱垣廻船問屋仲間が、隅田川に架かる両国橋、永代橋、新大橋の3橋について、町方資金による改架、修理の負担を幕府に申し出ました。管理費用の捻出に悩む幕府は、渡りに舟とばかり、この資金管理機関となる三橋会所の設立を認可しました。なお、これ以降、有料橋であった永代橋と新大橋は、橋銭の徴収を止めています。
  会所の直接的な設立目的は、問屋仲間が出資した金をもとでにして、当時樽廻船に輸送シェア−を食われていた菱垣廻船の再建や仲間内の営業困難者への融資を行うものでした。そして、三橋の改架、修繕という幕府への協力姿勢を通じて、問屋仲間を株仲間として公認してもらうことを目論むものでした。会所設立により、菱垣廻船約40艘を新造、株仲間としての公認など、一定の成果を挙げています。

  しかし、幕府の協力姿勢を前面に押し出し過ぎたのが災いして、会所資金の大半を幕府の米価対策への協力のため、買米に投入することとなりました。その結果、大きな損金を出し、設立後わずか10年の文政2(1819)年6月に廃止されてしまいました。

  以後、御入用橋の管理は、すべて町奉行所所管となり明治維新をむかえています。


◆町方による橋梁の日常的管理=利用者負担の原則

  橋梁の日常的管理は、それぞれの管理者があたるのが原則ですが、御入用橋については、町方の負担となっていました。また、隅田川に架かる千住大橋、両国橋、新大橋、永代橋の4御入用橋の水防も、町方の負担となっていました(江戸の洪水と橋梁参照)。

  万治3(1660)年5月、橋梁維持に関する最初の町触が布告されましたが、その内容などにつて次ぎのような記録があります。
 「この月令せらるるは各所橋上にて諸物うりひさぐものあり。名主並に橋辺住居のものあらためてこれを置くべからず。かさねてかかるものあらば、売物をとりおさむべき旨かれらにさとし、さるにてもおして来るものは、うり物とりおさめ、うたえいづべし、尤、常に橋上を酒掃(しゃそう)すべしとなり」

  御入用橋の清掃に関して、1ヶ月に2回、降雨のさいに洗浄すること、橋上の塵芥は橋床の老朽化を早めるから日常よく清掃すること、これらにつて月2回は同心を検分に回らせる、もし粗略のときは関連する町方の責任者を処罰する、などたびたび町触を出していました。
  この他、橋梁の利用についても町触があり、橋上や橋詰に物売、乞食などが留まることを禁止し、牛馬もとめてはならないものとしています。隅田川の御入用橋4橋では、車の通行も禁止していました。

  町方では、橋梁の日常的管理に要する費用を町入用から支出していました。町入用は、地主層が所持する屋敷の規模に応じて負担し、町ごとに設けられた会計です。町入用からは、
  @幕府への上納金、自身番・木戸などの維持管理費
  A橋・道路・上下水道などの維持管理費
  B町火消・防火施設に関する費用
  C祭礼費用・その他町政の運営に関する費用
などが支出されました。ちなみに、天明5(1785)年の松川町(中央区京橋)の町入用は総計64両、このうち橋・道路の維持管理への支出は16%の10両余りとなっていました(江戸東京博物館編「図表でみる江戸・東京の世界」p−32)。