ver.001123
新 大 橋(しん おおはし)
- 橋梁形式 2径間連続斜張橋
- 主桁形式 鋼床版箱桁
- 橋 長 170.0m
- 幅 員 24.5mm
- 架設年次 昭和51年3月(東京都)
- 建設機関 東京都
- 管理機関 東京都
- 最 寄 駅 地下鉄新宿線浜町駅
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江戸名所図会(新大橋 三また)
新大橋(明治18年改架 明治30年代)
新大橋(明治45年改架)
橋詰に保存されている旧橋の親柱
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新大橋は、中央区日本橋浜町と江東区新大橋一丁目の間で都道50号「新大橋通り」を渡す橋である。
創架は、元禄6(1693)年、幕府により架橋された。橋名は、大橋と呼ばれていた両国橋に次ぐところから、新大橋と呼ばれた。隅田川で第三番目の橋であった。
明治18(1885)年、東京府により新しい西洋式の木橋に改架された。 同年の隅田川出水の影響があったものと思われる。
明治30年11月、道路橋として我国最初の鋼プラットトラス橋に改架された。架橋位置は、江戸時代より200mほど上流である。設計は樺島正義による「装飾橋梁」であり、親柱、橋門構、高欄などの各部にすぐれたデザインが見られた。側径間の一部(1/8)が愛知県の明治村に保存されているほか、左岸橋詰広場には親柱1基と高欄数パネルが保存されている。
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関東大地震の際、吾妻橋、厩橋、両国橋、永代橋などが、市街地大火により木造床組が炎上焼失し機能を失った中で、鋼製の床組とコンクリート舗装の本橋は唯一焼失を免れた。
燃えさかる大火に追われて、神田・日本橋、本所・深川方面から避難してきた人々は、隅田川の橋上に追い詰められた状況となった。大火の火の粉が飛び、やがて避難している人々の家財道具に燃え移る。さらには、橋下を燃えながら流れ下ってくる船やいかだからの炎で床組が炎上する。こうして、橋上に避難していた人々は隅田川に転落し、多くの死者をだした。
不燃材で構成されていた新大橋は、炎上を免れ、多くの人々の命を救ったのである。ここで特筆すべきは、橋詰の交番に詰めていた警察官が、避難者の荷物をことごとく橋上から投げ捨てさせたことである。燃えるものを、橋上に持ち込ませなかったのであった。
本橋は、「ひとたすけ橋」と呼ばれた。橋上に逃れて命を救われた人々は、右岸上流の橋詰広場に、「震災避難碑」を建立して感謝の気持ちを表している。
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- (*1)
- 新大橋改築事業概要
- 昭和49年9月 東京都建設局
橋上バルコニーとベンチ
タワー基部のレリーフ
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現橋は、昭和49年3月、旧橋が老朽化したために架替たものである。その計画について、次の記録がある。(*1)
- 新橋の型式選定上の留意点は以下の通りである。
- 新橋は、隅田川高潮防御計画による桁下高の制約を受け橋面が従来より高くなるため、取付道路において生じる沿道地先との高低差をできるだけ小さくする必要がある。
- 新橋脚は旧橋脚の位置を避ける。旧橋脚は煉瓦造りであり、かつ沈下が著しくその利用が困難である。
- 架橋地点は市街地であり、また河川には船運が多い。
- 景観上、多くの名橋が架かる隅田川筋橋梁および右岸沿いの首都高速道路高架橋との調和を配慮する必要がある。
- 以上の条件について検討の結果、次ぎの理由により2径間斜張橋を採用した。
- 架橋地点では川筋が彎曲しているので、橋脚は左岸寄りに1基設けることにより、工事中および完成後の船舶航行に対して安全である。
- 斜張橋の橋上構造は開放的であり、歩行者に閉鎖感を与えない。また外観上明治を象徴する旧橋に対して、新橋の型式は現代にふさわしい軽快な感を抱かせる。
◆◆◆
高度経済成長期の橋であるが、名橋として名高い旧橋を意識して、デザイン面に破格の力をいれている。
広い歩道、橋脚部には橋上バルコニーを設けた。法的な問題もあったのだが、東京の橋で始めてベンチを置いた。(道路法上、ベンチを道路に置くことができなかった) タワー基部には、広重の「大はしあたけの夕立」と旧橋の姿を表すレリーフを取付けている。しかし、高欄や橋燈、親柱などにディティールが乏しく、こうした取組みが浮上って感じられるのが残念である。
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